「ゆきのトレーナーは、永池だ」
ゆきが協会に引き取られて1ヵ月半ほどたった3月1日の夜、上司に突然こう命じられた。
大学から最終的にゆきを引き取ることは、ミーティングを通じて知っていた。しかし、トレーナーは誰がやるのかなっというぐらいの認識しか永池にはなかった。
「どうして私が?」
何人かで食事している最中に、何の前触れもなく突然の申し渡しだから、永池はただ目を白黒させるだけであった。
明日からまとめて休みを取ったので、どう過ごそうかな、とルンルン気分で食事を楽しんでいたので、思いがけない上司の言葉に驚いてしまった。
日本レスキュー協会で憧れのドッグトレーナーになってから、ゆきのトレーニングは、命のことを深く考えるきっかけとなった。
責任ある大きな仕事で、永池は、自分に出来るのかな、と一瞬不安に襲われた。
ゆきは施設で生まれ、施設で育った。しかも、2年という長い間、狭いケージに入れられたまま人との接触もなく、広い場所を自由気ままに走り回ったという経験がない。
ある意味で犬らしくない犬であった。
人や周りのものに対して関心が薄く、どちらかと言えば表情も無反応という犬であった。
大学の施設にいる頃は、いつも目の前に水や食餌が置かれていた。
食べたい時に食べ、飲みたい時に飲めるという環境にあるため、食べ物にたいしても執着心がない。動物らしいガツガツとした食欲というものがなかった。
「本当に欲がないというか、おとなしい犬ですね。
その頃、自分が『ゆき』という名前なんだということが分かり始めてきたようで、名前を呼ぶとようやく反応するようになりました」
と語る永池。
セラピードッグゆきとしてのトレーニングがいま静かにスタートした。