石井にとっては、家族の一員であったマルが亡くなったという実感はあまりなかった。家に帰れば、いまにもマルが嬉しそうに駆け寄ってくるのではないかという思いがしてならない。
丁重に葬式をしてやったが、遺骨はまだ自宅の居間に置いたままであった。
老人ホームの責任者である石井にとって、昼間は過密なスケジュールの中で忙殺される毎日だが、ふと一人になった時、マルのことが思い出され目を潤ませているのだった。中学生のときから「悪ガキ」で暴れまわっていた石井だが、50歳を超えたいま、すっかり涙もろくなってしまっていた。
マルと過ごした日々を繰り返し思い出し、とても新しく犬を飼おうなどとは考えることすら出来なかった。
石井は、マルとの16年間にわたる数々の思い出を温めながら、日常の福祉活動にいそしんでいたが、しかし、心の片隅には埋めることのできない大きな穴がポッカリと空いたままであった。
長年飼っていた犬を亡くし、ただ思い出に浸る日々をすごしていた。
日本レスキュー協会の伊藤からセラピードッグの導入の提案があったのは、それから1ヶ月経ったばかりの時であった。
石井は、その場にいた誰よりも心を動かされた。
これはもしかすれば、自分のために提案してもらっているのではないだろうか、と思い込んでしまうほどであった。
伊藤の提案は、心強くひかれるものがあった。結論を出すのに、何の躊躇もなかった。
「これはぜひ申し込もう」
そう心に決めていた。
ただ犬を飼うのではなく、お年寄りたちにとっても本当に意義のあることではないだろうか。
セラピードッグが来ることによって、施設での生活で狭くなった人との付合いがひろがり、心が和むのであるなら…。
石井個人は、普通に犬を飼ったり、猫を飼ったりしているだけで、特別に動物愛護や動物福祉に関わるという意識はなかった。
自分に何ができるかどうか分からない。しかし、処分される犬を助けることができ、そして、セラピードッグとして入所しているお年寄りと接して、喜んでもらえればこんなにありがたいことはない。
幸いにして、自分は率先してこのホームの方針を出せる立場にいる。
「セラピードッグを派遣してほしい!」と、すぐに申し込むことに何の迷いもなかった。
伊藤が、ビデオを使ってセラピードッグのことを説明しているが、石井の頭の中では、ぜひとも自分の施設に受け入れたいという思いが強まるばかりであった。
会議が終わるやいなや、石井は足早に伊藤の所に駆け寄っていた。
「伊藤さん、セラピードッグを永寿老人ホームで受入させてもらえないでしょうか」
「本当ですか。こちらこそよろしくお願いいたします」
伊藤のセラピードッグ普及の理想と、石井のどうしても自分のホームにその犬を迎えたいという熱い思いとが、1つになった瞬間であった。
している。