食欲を知らない犬

担当トレーナーも決まり、避妊手術を終えたゆきは、3月下旬からいよいよセラピードッグとしての本格的な訓練を始めることになった。

「ゆきは、ピッカピッカの1年生。よろしくね!」

永池は張り切っていた。

まず、食べ物に対する執着心をゆきに持たせることから始めようと決めた。

ゆきは、動物の本能とでもいうべき「食欲」についても、非常に淡白であった。

大学施設にいたころは、いつでも食べ物がケージの前にあった。特に自分から求める必要はなかった。食べたいときに食べ、飲みたいときに水を飲めばいい。

そのため、食欲ということ自体を知らなくても良い犬に育ってしまった。

永池は、食べ物に関しては、特にゆきに厳しく対処した。最初のころ、食べ物を残すとすぐに下げ、食べなければ空腹の時をあえて作るようにした。

ゆきも半日はがまんできた。1日目、どうして目の前に食べ物がないのかが理解できず、不安そうにしていた。しかし、ゆきには人に対して自分の意志をどう表現して良いかが分からなかった。

2日目になるとさすがイライラしてきたのか、ウロウロ歩き回る。

その内、さすがに空腹に耐えかね、側にいた永池にすり寄って、鼻「クーン!」と鳴らしはじめた。

それでも永池はあえて無視をした。

すると、また寄ってきて、「クーン!」と甘えて、自分から食べ物を要求しているのだった。

永池は、内心、「ヤッター!」と思った。

ゆきが人に対して、はっきりと意思表示をした決定的瞬間であった。

大きな一歩をいま踏み出したと思った。ゆきと初めて意思を通じさせることができたと実感した。

「この子は大丈夫だ。トレーニングして、きっと良いセラピードッグに育ててあげよう」と、お腹をすかしたゆきに食事をあたえながら、永池は自らに言い聞かせたのだった。