いよいよ約束の引き取りの日がやってきた。倉田と、まだ管理室を見たことがないトレーナーの3人が大学まで出向いた。
大学の施設に入ってみると、全回訪問した時とは違って、確かに犬が少なくなっていた。職員の佐藤ですら知らないうちに、1頭、また1頭といなくなっているとのことであった。「ゆき」を救い出すには、ぎりぎりのタイミングだったのが分かった。
引き渡される前に、佐藤から、この時初めて「ゆき」の出生の事情を知らされた。
ある日、1頭のメス犬が実験犬として施設にやって来た。その時、すでにその犬は妊娠をしていて、数カ月経って3頭の犬が生まれた。他の兄弟と一緒に生まれたのが「ゆき」だったという。
「母犬が子犬を宿しているまま連れてこられ、本来ならば生まれてすぐに処分されるはずでした。
しかし、前任の飼育者がそれは忍びないと子犬たちを救ったんです。この子たちもいずれ実験動物として役に立つからと、管理室の中で育てたのです。
優しい人だったから、うまく機転をきかせてくれたんですね。
だから、この犬はこの施設で生まれてから2年というもの問、1度も外に出たことがないんです」
と佐藤が教えてくれた。
「ゆき」は、施設生まれの施設育ち。普通の状態で人に育てられることもなく、外の世界をまったく知らずにいたということが分かった。
「ゆき」の母親の世話を担当していた飼育者も、子犬たちがかわいかったのだろう、そのまま飼い続けていたというのが事実である。
倉田は、この犬に名前をつけたことを佐藤に伝えた。
「フワフワとして、雪のように真っ白なので、ゆきとつけました」
「ほおーっ、ぴったりの名前やな。良かったな、ゆきちゃん!」
佐藤も嬉しそうに、その名前を呼んでいた。
ゆきを引き取って施設から出る時に、エレベーターの中で研究者の人が乗り込んできた。佐藤はその人に、
「この子、 今度もらわれて行きますねん。ゆきちゃんという名前つけてもらったんです」
と嬉しそうに、大きな声で話した。
研究用の犬をどのような理由にしろ、殺処分もせずに外部の団体に譲り渡すことはかつて一度もなかった。それでなくとも、現場責任者として、今回のことは秘密裏に事を進めたいというのが本心ではないだろうか。
倉田は、佐藤が何のためらいもなく他の研究者にゆきがもらわれていくことを話すのを不思議に思った。
しかしすぐに、この人は本当にすごい人なんだと感心してしまった。この人がいなかったら、例え1頭といえ、助けることはできなかったと確信するようになった。