著者名:北 徳(川崎医科大学医用生物センター)
1、はじめに
今日は「実験動物の福祉」についてお話しさせていただくことになったのですが、打診いただいたおりに、条件を二つ提示させていただきました。一つは、私を「先生」と呼ばないで下さいということ。もう一つは、異端児の個人的見解で妙な内容になることを了解して下さいということです。それは、私自身が「先生」と呼ばれるべき身分でないことと、「先生」と呼ばれることが好きでないということもあるのですが、「実験動物福祉」について誰かの話を聞くならば、自分とは違った考えに立った話を、話し手に対しても自分自身に対しても批判的姿勢を持って聞くべきと思うからです。「先生」つまり「識者」の「お話」を拝聴するという姿勢ではあまり益にならない。「実験動物福祉」というのは、自分自身が当事者として苦しみながら考えるべきことと思うのです。
私は、1974年から今日まで、川崎医科大学の実験動物施設の技術員で現場責任者という立場で、何の変化もなくズルズルと働いてきております。そこで働くようになって間もなく、施設を利用する実験者たちの行動が大変気になるようになりました。彼らの施設内での行動を目の当たりにして、実験者とか研究者というのは一体何者であるのか疑問に感じるようになったのです。そうこうしているうちに実験動物や動物実験を取り巻く社会情勢がだんだんと怪しくなってきました。動物実験反対運動の動きです。それで1980年頃から、動物実験倫理や実験動物福祉について少しずつ自分なりに考えるようになりました。特に1987年(昭和62年)に山形市で開催された実験動物技術者協会総会の「実験動物の福祉を考える」と題した分科会において話題提供の機会を与えられてから深入りすることとなりました。その話題提供の準備をする段階で大変に気に掛かったのが「研究者」というものについての正反対の見解があることでした。それは当時、定期発行されていた「ラボラトリーアニマル」という雑誌の同じ号に載った別々の論文にあったのですが、一つは「研究者が必要もないのに動物を残酷に扱うことは絶対にありえないことを研究者はつねに社会に発言すべき」というもの、そしてもう一つは「研究者こそが、研究という美名のもとに動物に無意味な犠牲を強いている」というものでした。
普通、「実験動物の福祉」を考える場合、飼育環境、動物の痛み、苦痛、ストレスなどについて考えるのが一般的と思うのですが、社会において「科学研究」、「科学研究者」あるいは「科学技術者」というものがどういう性質を持っており、どういう位置にいるものなのか、大変に気になるようになってしまいました。そして、「実験動物福祉を考える」ということは、一体何を考えることなのか、入り口でつっかえてしまったわけです。
私がそこの所につっかえてウロウロしていた時期、1990年の10月でしたが、当時、活動が顕著になりつつあった「動物実験の廃止を求める会」(JAVA)から、実験動物技術者協会宛に「実験動物技術講習会における動物解剖中止の申し入れ」が送られて来ました。実技協の関東支部が計画していた実技講習会に対する抗議行動であったわけですが、それをきっかけとしてJAVA会員の人達と手紙による意見交換をおこなうこととなりました。
意見交換することになったのは、たまたま私が実技協の情報部を担当していて、JAVA側から実務的な接触を受けることになったためだったのですが、一面、反対運動はわれわれの姿を陰陽逆転して影の部分を写し出している鏡なのかも知れないとの思いがあったことから、その鏡の中を覗いてみたいとの興味もありました。そしてほぼ2年間、手紙による意見交換をすることとなりました。その間、随分沢山の手紙を受け取り、また書くことになったのですが、最終的に、JAVA側から、「自分の娘をアメでつって人買いに売り渡す父親のような人間だ」とか「ちょっと物わかりのいい奴隷商人のような人間だ」また「(JAVA側の意見を)悪意をもって誇張し曲解し議論を誘導した」といった最終評価を与えられて結局、意見交換は決裂してしまいました。それからほぼ10年、実験動物の周辺では相変わらず議論が続いております。
2、なぜ実験動物福祉なのか?
今では、動物実験倫理・実験動物福祉の問題は、私たち動物実験・実験動物に関わる者にとって必須の課題となりました。そのため、この分野で働く者それぞれが、それぞれの日常業務のレベルに応じて、それぞれに考えなければならなくなっています。他人事ではないということです。
当事者は当事者として考えるべきである……とはいっても「自分はたまたま就職先、配属先が実験動物を扱う職場であっただけで、実験動物の福祉について考える義務や責任までは負っていないよ」という意見もあると思います。あるいは「動物実験は社会の要請によって社会のために行っているのだから、考えるべき責任はその恩恵にあずかっている人々にあるはずだ、なんで私たちだけが考えろ考えろと求められなければならないのか」という意見もあると思います。
その通りであると私も思います。実際、JAVAの人達に対して私はそのように主張してきました。しかし、それはそうなのですが、どんなに自分の社会的立場を説明してみても「ではなぜあなたはそこに留まっているのか?」「それは自分の自由意思によってではないのか?」と問われたらどうでしょうか?
どんなに消極的な動機によってであろうと、動物実験の場に留まっている以上、その人はその場にいる者としての社会的責任・義務は果たさなければならない、と私は考えています。つまり、この場におられる皆さんの肩には、それぞれの立場に応じた重さの社会的責任と義務が乗っている。
では、「実験動物の福祉に配慮しなければならない」というのは何故なのでしょうか? また、「実験動物の福祉に配慮する」というのは何をどうすることなのでしょうか?大きな疑問です。私はこの二つの疑問に対する答を未だに見つけることができません。ぼんやりとですが悩み続けています。
本来ならば、この場で皆さんにここの点での私の考えをお話しすべきなのでしょうが、今のところお話しできるような考えをまとめることはできておりません。ですから、この二つの設問はオープンクエスチョンとさせていただきます。皆さんにご自分自身の課題として考えていただきたいと思います。
重い課題です。簡単には考えはまとまらないでしょう。しかしながら私たちは、この二つの課題がたとえ未解決であっても、現場で具体的に行動しなければならない立場にいます。逃げるわけにいかない。そういう現場にあって「なぜなのか?」「どのようになのか?」が未解決のままに、私たちは実務に当たらなければならないことになるわけですが、それはとてもストレスフルな状況です。まして、社会的批判があるとなるとストレスは一層大きくなります。ですから、「なぜなのか?」について何か適当な理由はないだろうかと私は考えてきました。何かわかりやすい理由が見つかれば少しは心理的に楽になれるのではないか、あるいは実験動物施設の利用者を説得しやすくなるのではないか、というわけです。
3、キーワード:社会的信頼・信用
そこで思い至った「なぜか?」について現実的な理由を一つだけ説明します。そのキーワードは「社会的信頼・信用」です。
先ほどちょっと触れましたように、私たちは社会の要請によって行われる動物実験に関わっています。動物実験は社会的に必要とされている。だから私たちは動物実験に関わっている。というのが私たちの大義名分です。では、社会はどんな形でもいいから、動物をどんな風に扱ってもいいから、とにかく動物実験をやって結果を出せ、と要請しているのでしょうか?どうもそうではなさそうですね。そこには条件がある。その条件というのは、この社会の大方の人が賛成できる条件の下で行うことである、と言って良いと思います。これは、この民主主義社会のあらゆる問題の基本原則ですね。一方、見方を逆転してこのことを見ると、現実として現在われわれが要請を受けて動物実験をやっているということは、社会がわれわれを要請するに足る人間集団であると信頼を寄せていることを意味しています。
つまり、われわれは今のところ、ある程度の条件を満たしながら動物実験を行っている、との社会的信頼を得ていることになっている。
ところが、この動物実験関係者に与えられている社会的信頼は今、揺らいでいる。動物実験反対運動はその表れの一つと言えます。
最近、社会一般を見渡すと様々な分野で社会的信頼を自分達自身でいとも簡単に崩壊させてしまうというニュースが多いですね。それらのニュースによって私たちは「社会的信頼・信用」というものは簡単に崩れ去るものであるという厳しい現実を見せつけられています。また、「社会的信頼」をいいことに、杜撰な業務を日常的に繰り返している事業体や団体がいかに大きな代償を払わなければならなくなるか、また信頼崩壊はその問題を起こした事業体や団体に留まらず、業界全体、分野全体の信頼・信用をいかに大きく傷つけることになるか、そしてその信頼・信用の回復にはいかに長い年月と大きな人的エネルギーを必要とすることか、私たちにとって教訓となる事例には事欠きません。私はこの点を強調しておきたい。ここのところに私たちが実験動物福祉に配慮すべき現実的・社会的な理由があります。つまり社会的信頼・信用をどう築きどう維持してゆくか、動物実験を行う組織や集団にとって実験動物福祉対策は、その社会的信頼・信用の重要な要素の一つになっているのです。
では、どのような姿勢でそれに取り組めばよいか?私たちがある課題に取り組むときにはいろんな姿勢があります。前向き⇔後ろ向き、積極的⇔消極的、自律的⇔他律的、肯定的⇔否定的、利他的⇔利己的、創造的⇔定型的、協調的⇔独善的、受容的⇔排他的……等など。日常、私たちは目前の課題に取り組んでいるとき、自分がどんな姿勢で事に当たっているかあまり意識してはおりません。例えば、動物実験反対運動が活発になってきたから対策を考えようというとき、皆さんはどんな風に考えられるでしょうか?
ちょっと単純化した二つの姿勢を示してみます。一つは、動物実験反対運動を「われわれを否定する厄介な運動」であると位置づけて、防衛のために「福祉対策をやっています」と言えるようにしておこうという後ろ向き、消極的、定型的姿勢、簡単に言えば仕方なしにやる姿勢。もう一つは動物実験反対運動を「世の中にある多様な考え方の一つ」であると位置づけて、「積極的に社会に働きかけるために福祉対策を行おう」という前向き、積極的、創造的姿勢です。最近多発している社会的信頼・信用崩壊の事例は、ニュースなどで見る限りにおいて、前者の姿勢が招いてしまった事態のように思われます。
つまり、放射性物質の扱いについても、原子炉の安全チェックにしても、食品の品質表示にしても、自動車のクレーム処理にしても、国会議員の金銭管理にしても、公共事業の競争入札にしても、それぞれの法律や指針・基準に基づく実務手続きの意味・目的を忘れて「仕方なし」にやっている。仕方なしにやっているから穴だらけで、あちこちからボロが出ている。ボロが出ていることを自分達も知っていながら外に向かっては「安心して下さい、ちゃんとやっていますから」と言い続ける。そしてある時、ボロが白日の下に晒される。あるいは事故が起こる。すると世間に非難の嵐が起こってその事業体や業界の社会的信頼や信用が一気に崩壊する。このときボロが外に出るのは多くの場合、内部告発であるわけですが、私たちの社会はどうもこれを嫌います。「身内に不利な情報を外部に漏らすとはけしからん」というわけで、告発者は強く非難されます。
このあたりに、どうもこの国の社会の多くの組織が真の社会的信頼・信用を築き維持することができないことの原因があるように思われてなりません。
先日ニュースで流れていましたが、札幌市にある、ある大手スーパーで豚肉の生産地表示の偽装が発覚した折、スーパー側が非を認めて、該当商品の購入者にはレシートがなくても代金を払い戻すと発表したところ、わずか3日間で1548人が押し寄せ、払戻額が実際の販売額の4倍にも達し、スーパー側があわてて払い戻しを中止して、押しかけた客との間で大騒ぎになった、と言います。
これなど日本人の心の中で人間相互の信頼という機能がうまく働いていないために起こった事態であるでしょう。どうも日本の社会では、人々の心の深いところに人と人との間の相互不信が渦巻いている……そんな社会に見える。
そんな社会の中で、おそらく、内部告発は、組織内にいてその組織内にある問題点に気づいている人が、その組織自体の内部機構の範囲内で問題提起を行っても目に余る不正行為や不正義が改善できない絶望状態にあるとき、やむにやまれず行う行為であるように私は感じています。つまり、その組織の社会的信頼・信用をギリギリ最後のところで建て直そうとする行為であろうと思うのです。
ところが、この日本ではそういった内部告発や身分をわきまえない直訴のような行為は大変に嫌われる。内部告発だ直訴だ、とわけのわからん話をするもんだ、と訝っておられるかも知れませんが、私は、実験動物福祉の問題も、ここのところでの私たちの考え方を転換しなければ、真の取り組みはできないように感じております。例えば、「内部告発した」というのは、隠しておきたかった都合の悪いことがバラされたという意味で、身内の恥を外に漏らしたケシカラン、危険人物だとなる。しかし、見方を転換すると、一般社会にとって重要な内部の情報を個人的に社会に向けて開示した、のであって、その組織には問題を認識してそれを修正、変革しようとしている人物がいることを示しています。
つまり自己改革・自己浄化の可能性がある。そのことを社会に対して示した勇気ある行為と言えるでしょう。
また、直訴についても、上司である中間管理職や担当部門を無視し蔑ろにして身分をわきまえずに出しゃばったケシカラン、危険人物だと根深い恨みをかう行為と見られていますが、これも見方を変えると、「建議した」となります。
つまり、組織にとって極めて重要・緊急の提案を、中間の人々を煩わせることなくトップに伝えた勇気ある行為と見えます。これも自己改革・自己浄化への可能性を示すものです。「内部告発したケシカラン」とか「直訴したケシカラン」という発想は、人々が内向き姿勢で固まっているときに出てきます。
つまり、内部告発や直訴をケシカランという雰囲気の強い組織は内向きで閉鎖的であると言えます。これに対して、内部告発や直訴を、勇気ある行為と見る組織は外向きで開放的であると言えるでしょう。
では、この自由民主主義社会において社会的信頼や信用を得やすいのはどちらの形の組織でしょうか?皆さんはどう考えられますか?私は、開放的組織である、と考えます。一方、一般に、信頼とか信用というものは義務や責任を果たすことで得られるのだと思いますが、ここには難しい問題があります。
それは、社会的義務や責任のあり方は、時の流れと共に変化するということ、また、自己のあり方の変化によって変化するという点です。ですから、社会的義務・責任を果たすためには、社会の変化、自己の変化に柔軟に対応する姿勢を保つことが必要になります。社会の変化を知り、自己の変化を知った上で社会の中での自己の位置を認識することが出発点となるわけです。ところが、ボンヤリしていては社会の変化も自己の変化も知ることはできない。
そのボンヤリしていた事業体がいかに大きな代償を払わなければならなくなるか、その事例が今の日本では溢れています。
では、どうすれば社会の変化や自己の変化を認識することができるのでしょうか?それは言葉で言うほど簡単ではない。社会の変化、自己の変化を知るには、社会と自己との間に交流が必要です。その交流のための窓が常に社会へ向けて開かれていなければならない。つまり開放的組織でなければ、社会の流れもその中での自己の姿も認識できないのです。社会の流れもそこでの自己の姿も認識できなければ、自己に課せられる社会的義務も責任も認識できない。
ということは、閉鎖型組織には社会的義務も責任も果たしようがないということです。開放的組織でなければ、真の社会的信頼や信用を築き維持することはできないのです。組織や集団が外部社会に向けて開かれ、外部社会との間に交流のある形で維持されている信頼や信用が重要なのです。
牛肉偽装問題のニュースで流れていましたが、問題が発覚し大騒ぎになっている最中に、ある営業所の朝礼で「会社にとって具合の悪いことは外に漏らすな」と訓示した管理責任者があったそうです。このような内向き・閉鎖型の「内部告発はケシカラン」「直訴はケシカラン」という雰囲気に支配されている組織では、社会的信頼・信用を築くことはできません。そういう組織がもし現時点では信頼や信用を得ているように見えているとしたら、それは互いの幻想に過ぎないのであって、いずれ完全に崩壊する時が来るでしょう。
そこで皆さんに質問です。皆さんはひょっとして内向きの閉鎖型姿勢の中で、幻想つまりファンタジーに浸ってはおられませんでしょうか?
ちょっと考えてみて下さい。私たちは、多くの場合、動物実験・実験動物関係者だけで集まって、ケージをどうする、床敷きをどうするなどと議論するのですが、このように同質性の高い者が集まった状態の問題点について、内田樹の”「おじさん的」思考”という本の中に「同質性の高い空間に自閉していればコミュニケーション能力が育たないし、自分とは違う感覚、違う価値観を持っている他人と折り合う仕方を学習できない」という記述があります。
私たちが心
実験動物福祉の問題は、そういう文脈の問題でもあるのです。
4、自己認識:自分は何者で何を感じているか
ところが、私たちにとって社会や他者と交流するということはとても大変なことです。実験動物の福祉という一点で社会や他者と交流する場合でも、例えば自分は一体何者であるのか、まず最初に自己を認識する必要があります。
自己の認識なくしては社会や他者つまり外部世界との交流は不可能なのです。
ここで皆さんに質問が三つあります。
まず第一問。
動物実験者、実験動物技術者である自分は一体何者であるか?です。
社会から見たら?地域から見たら?会社から見たら?経営者から見たら?上司から見たら?同僚から見たら?部下から見たら?取引先から見たら?家族から見たら?動物好きの一般人から見たら?動物愛護家から見たら?動物実験反対者から見たら?そして何よりも自分から見たら?
いったい自分は何者なのか?皆さんいかがでしょうか?簡単には答は出ないでしょうが考えてみて下さい。
では第二問。
皆さんが動物実験に関わっているのはなぜでしょうか?
社会の要請か?組織内の業務命令か?上司の命令か?自己の科学的興味か?自己の個人的興味か?自己の社会的欲望か?つまり業績を上げたいから?地位を得たいから?同僚との競争に勝ちたいから?とりあえず来年の研究発表のため?あるいは、なんてことない惰性か?皆さんいかがでしょう?これもしっかり考えていただくとして、第三問です。
実験動物は皆さんにとっていったい何でしょうか?
実験のための道具でしょうか?自らの命を生きる生き物でしょうか?
皆さんは実験動物というものをどのように認識して関わっておられるでしょうか?
どれも簡単には考えはまとまりませんよね。でも少なくともこれらの問題を真面目に考えているのでなければ、動物実験に関わる者としての自分を立体的に認識することはできないし、実験動物福祉の問題に関して一般社会の人々と交流することはできません。自分を立体的に認識できなければ、実験動物福祉について社会に向けて語りかけることも、社会にある声に耳を傾けることもできないという意味です。また、精神医学者である野田正彰は、日本人の心の状況について「日本の社会に上手に適応している人には人とかわす感情の流れが起こらないことがしばしばある。どこか強張っていて、感情が内攻している人が多い」と言っています。心が強張っていると感情が内攻して他者との間で感情を交わすこと、つまり心の交流ができない、と言っているわけですが、私たちの心は強張っていないでしょうか?ちょっと覗いてみましょう。
私たちは日常的に多くの実験動物の死体を目にし手にしていますが、その死体を目にし手にしたとき、私たちの心は何を感じているでしょうか?ちょっと自分の事として考えてみて下さい。
目の前に実験を終了した動物の死体があります。
それはどのように死んでいるでしょうか?
無傷?腹を開かれている?頭を開かれている?内臓を摘出されている?頭がない?全身バラバラになっている?その死から実験者は何を得たのでしょうか?得たものにはどのような意味があるのか?得たものにはどれほどの意味があるのか?その死は実験者である自分にとって何を意味するのでしょうか?その死は動物自身にとって何を意味するのでしょうか?その死について自分は何を思うのでしょうか?
実験者としての自分の心は痛むのか?悲しむのか?何も感じないのか?実験者という衣を脱いだ人間としての自分の心は痛むのか?悲しむのか?何も感じないのか?
唐突ですが、金子みすゞの詩に「大漁」というのがあります。その中でみすゞが「海のなかでは 何萬の 鰮のとむらひ するだろう」と表現しているような感覚や感性を、私たちは「非科学的」だとして切り捨ててしまっていないか?切り捨ててしまってよいのか?「科学的」であろうとするあまりに、自分の中のこのような感覚や感性を抑圧してしまってはいないでしょうか?
いかがでしょうか?考えるのがいやになるような問題ですよね。胸が苦しくなるかも知れません。でも、実験動物福祉というのは、当事者である私たちにとって、この重苦しさに耐えながら、一般社会と交流しつつ考えなければならない課題なのです。自分の心が何を感じているのかということと、社会との交流。この二点がとても重要であると思います。
5、基準・マニュアルの社会的意味
動物実験の現場で、実験動物福祉を考えるとすると、やはり実務的には何らかの具体的な基準なりマニュアルの類が必要になります。一般に基準を元にマニュアルは作られることになるのですが、それによって現場における実務判断がしやすくなりますし、実務者による判断の個人差を平準化することができます。だからマニュアルはそれぞれの現場にとってとても重要です。
日常的には私たちはこのマニュアルに従って動物実験関連業務に当たり、「日常的にキッチリと基準・マニュアルに従って作業しています」と一般社会に向けて主張することになるのですが、では基準やマニュアルに従ってさえすれば、社会的信頼・信用が得られるでしょうか?
そうではないんですね。なぜかというと、先ほどお話ししましたように、時と共に社会や自己が変化するからです。マニュアルもマニュアルの元になる基準も、時と共に変化せざるを得ない。それを時の変化にあわせて修正する作業を怠ると、時代の要求と基準やマニュアルの間にズレを生じる。そのズレが限度を超えて大きくなると基準やマニュアルの信頼性が崩れる。この信頼性が崩れるということは、それを採用している組織の信頼や信用が崩れるということを意味します。ですから、基準とかマニュアルというものは常に厳しく検証しながら、社会の変化に対応できるよう修正、改訂し続けなければならないものです。基準やマニュアルについて私たちは、ともすればそれを硬いものと考えがちですが、実はとても軟らかいものであるのです。
なぜそれが軟らかくなければならないか、ちょっと考えてみましょう。
私たちの社会は様々な考え方、感性を持った人が集まってできています。
ですからみんな、自分以外の多様な考え方を持ち、多様な感性によって行動する人々との間で様々に考え方を調整し、行動様式を調整しながら生活しています。様々な個性が集まって社会が動いているということです。ですから、倫理のあり方、またそこでの実験動物福祉のあり方もそれについての人々の考え方、関わり方も一様ではありません。例えば動物実験に賛成か反対か、という点で見ると、人々の考え方は、絶対反対から絶対賛成まである。
そして極端な考え方の人は少なくて中庸の考え方の人がたぶん多数を占めている。おそらく、動物実験には条件付き賛成とか条件付き反対という意見が多いでしょう。つまり、人々の考え方は、正規分布のような形で分布しているように思われます。そして、この社会は、このような分布の中心からある幅を持った範囲内で運営されることになるのではないかと思います。この幅は人々の倫理的判断の幅であって、いわば平均的倫理の幅と言えるでしょう。ではこのような分布の中で、私たち自身はどの位置にいるものなのでしょうか?基準やマニュアルというものはどの位置にあるものなのでしょうか?あるいは、この分布の形はこれからどちらの方向に向かってどのように変化してゆくものなのでしょうか?
具体的にイメージしながら考えてみて下さい。そうすることが、自己を知り社会を知るということなのではないかと思います。この分布のどこかに位置する私たちが、私たち以外のこの分布を構成している人々に語りかけ、その人々の声に耳を傾ける。それが、自己と社会との交流ということです。その交流の中から基準やマニュアルは生まれてくる。言い方を換えれば、「基準やマニュアルは常に一般社会からインフォームドコンセント(十分な説明に基づいた納得・同意)を得ようとする努力の上に成立する」と表現できるでしょう。だから、この分布で示される社会が変化すると基準もマニュアルも変化します。また、同じように、この分布の中での私たちの位置が変化するとやはり基準もマニュアルも変化するし、社会に対する私たちの姿勢によっても変化する。そういう意味で基準やマニュアルは軟らかいのです。これは肝に銘じておいていただきたいのですが、基準やマニュアルが実は軟らかいものであるということは、現場のわれわれは、日常的にただそれらに忠実に従っておりさえすれば事が足りるわけではないということを意味しています。話が循環しますが、専門家として私たちは変化に敏感に対応しなければならない、そうしなければ社会の要請に応ずることができないのです。
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