53. 「氷結」崩落事故七回忌に寄せて

「母さん、明日は雪祭り行こうよ、僕は母さんちに何度も来てるけど、良く考えたら一回も行ったことがないんだ」

 「そうかい、そしたらこの町から直行で札幌に行くバスがあるから、一緒にいくべ」

 このような会話をしながら翌日を迎えた。私の誕生月に当たる2月の真冬日だった。

 外に出て見ると吹雪いており、気温も零下15度まで下がっていた。

 「やっぱりやめるべ!」

 母さんのこの一言で雪祭り見物は中止になった。

 その後、テレビを見ているとローカル放送でテロップが流れた。

 ・・・豊浜トンネル内で崩落が起こった模様・・・

 最初は大した事故ではないと思っていたが、時間を追うたびにテロップの内容が変化して来る。

 ・・・トンネル内では一台のバスと数台の乗用車が埋まっている模様・・・

 慌てて、「母さん、隣町のトンネルで岩が落ちて事故があったらしいよ」と伝える間にも具体的な事故の模様が流れ、やがてニュースでも取り上げられるようになった。 バスに乗っている乗客全員と一台の乗用車の運転手の安否が気遣われる。母さんも「痛ましい事故が起こったのう」と言いながら真剣にテレビを見ていた。そのうち、埋まっているバスは今朝、母さんと一緒に乗って札幌に向かうはずの直行バスであったことが判明した。また、乗用車に乗っている若者は私が時々、エサを買いに行く釣具屋の店員であることも判った。バスの運転手は母さんの遠縁であるし、乗客も殆ど地元の高校生であった。

 結局は懸命の救出作業にも関わらず、全員が死亡という前代未聞の大惨事となった。この事故は全国放送でも流れ、固唾を飲んで見守っていた方も大勢いたと思うが、私もこの事故の顛末は大阪に帰ってからも続けて見ていた。事故の翌日には帰らなければならず、バス会社に連絡すると、山越えだが一本だけ早朝にバスを走らせるという返事が返って来た。いつもなら、数分で通過するトンネルが塞がってしまった為、一時間半もあれば小樽に到着する予定が5時間近くかかって行き着いた。

 バスには大勢の報道陣も載っており、乗客にインタビューしていたが、私は終始、 無言で座っていた。なぜなら、もしかしたら、この座席ではなく、埋まっている座席に座っていたかも知れないからだ。私だけでなく、母さんも犠牲になっていた可能性があるのに、簡単に事故に遭われた方へのコメントなんて出来るものではなかった。もし、強引に母さんをバスに乗せていたら、もし、足の悪い母さんをバスに乗せるために数秒の遅れがあったなら・・・?「もし、もし、もし」という言葉が次々と現れては消えていった。崩落事故でコンマ何秒という確率で直撃を食らうことは今までにも何度か報道で見たことがあるが、まさか、自分が乗ろうとしていたバスがそのような運命に出会うとは露ほどにも思わなかった。

 自分が助かった喜びは何処かに消え、犠牲になった人々への悲しみばかりが募った。 二万七千トンもの大きな岩盤は事故後に色々な調査から、非常に危険な兆候を示して いたことも明らかにされ、地元の漁師も舟の上から、時々パラパラと落ちてくる小石 には気付いていたそうだ。駐在所の警官も連絡を受けて見に来たこともあるらしいが、 まさか、そのような大事故が発生する前触れであろうとは誰も思わず、一人の人間に 責任を負わせるような問題ではなかったというのが真相だ。救出劇の間にも何万件という投書や電話が相次ぎ、二次災害を起こす危険性があるにも関わらず、世間の圧力には抗し切れず、関係者は事故災害現場に立ち向かっていた。

 ダイナマイト爆破が失敗するたびに国民の怒りはピークに達したそうだ。

 災害に遭われた方のご家族が泣くのをこらえて、ひたすら神に祈っている姿が印象的だった。崩落の原因は長い年月の間に岩に溜まった水が隙間を作り、それが厳寒の 凍結で結氷状態となり、膨張したため、ついに支え切れなくなって、落ちてしまった というのがこれまでの定説であるが、如何に自然の力の恐ろしさを見せ付けてくれた結果であった。崩落前からずっと通っていたが、あの岸壁に張り付いている氷柱の大きさはとんでもなく巨大で、あんなものが落ちて来たら車など、ひとたまりもないだろうと思っていた。道路公団の定期的な巡回で、危険な個所の氷柱は手作業で落としていたが、まさか、岩の間で大きく育った氷が原因となってあのような事故を起こすとは夢にも思わなかっただろう。犠牲となられたご家族に対して、補償問題が当然のごとく湧き上がり、責任の所在も裁判で問われた。

 保証金を貰った遺族に対して、周囲から色々なやっかみも起きた。

 立派な家を建てたことがそれに拍車をかけて、仲の良かった町民同士がギスギスした間柄になってしまった所もあると聞いている。

 母さんの遠縁であるバスの運転手の家も立派になった。崩落したトンネルも閉鎖され、新しいトンネルが道路とともに作られた。そして、旧トンネルのあった所に慰霊碑が建立され、今は記念公園となっている。

 ひつとの命の代償として、いくら環境が良くなったといえども、亡くなった方達は 帰って来ない。これから高校を卒業して大学を目指す子供達や社会人を目指す子供達 の未来は一個の岩によって打ち砕かれた。あれから七回忌を迎えた今も、私は彼らの ことを忘れることは出来ない。バスに乗ると、ほっぺを真っ赤にした地元の高校生の 姿が目にちらつく。一生懸命、都会っ子の真似をしようと、おしゃれをしている子供も いるのだが、どうも、馴染んでいるようには見えない。

 その田舎臭さが好きであった。座席も満員であったら大きな荷物を抱えている旅行者にはすぐに譲ってくれた。余所者に対してチラチラと盗み見る姿も好感が持てた。 今もバスに乗ると犠牲になった彼らの後輩であろうと思える学生が大勢乗ってはしゃいでいる。中には当然、親戚もいるだろうし、年の離れた弟や妹もいるかも知れない。その姿には当時の事故の余韻も感じられないが、お願いだから、その明るさを忘れないでいて欲しいと思うのである。私にとっては新しいトンネルを通過するたびに事故の一部始終が思い出され、それが氷結した気持ちとして、いつまでも消えることはないが、せめて、彼らの笑顔を見ていると少しの間でも心が和むのである。そして、厳しい自然とともに生きて来た人間の強さを感じるのである。