32.「本音と建前」

物事には本音と建前があると知ったのはいつ頃のことか?

社会構造として普通に機能していただろうが、子供の時はそんな言葉はもちろん知らない。大人の社会に参加するようになり、正直な対応だけでは決して物事は進んでいかないのだと知った時はショックだった。これは、大人になるにつれて、純真さが失われていく過程なのか、賢くなって行くのか、反対にずるさに長けた者として自分自身を容認させて行くべきなのか?自己矛盾の中で私も随分、悩んで来た。

今、問題になっているイラク戦争についても、何が本音で何が建前なのか判らないし、動物実験の是非についても、現場に居る技術者として、色々な関係者と接触して来たが、どこまでが本音で喋っているのか判らない人も多かった。生物は生活本能として、生きる為にはまず、何かを食べなければならない。食物連鎖という言葉があるように、他の生命を犠牲にしてでも自分の生命を維持しなければならない運命を背負っている。そして、人間はその食物を得る為には労働という義務を果たし、その見返りとして、金銭を得て、それを食物に還元させて家族や自分の生命を維持している。これは、どんな職種も同じ事で、動物実験に携わる人々も例外でない。だから、「私は医学の発展の為に行っているので、見返りなどは希望していない」というのは建前であり、本音の大部分はそこにあると思う。もちろん、「名誉」や「富」の為に働いているという人もいるだろうが、最終的にはそれも、生命維持の為である。それも、他人に比べて余裕のある生命維持を図らんが為の建前であって、本音は皆、同じであろう。

殺すのは可哀想だが、自分の生命維持を図る為にこの職種を選んだ以上、情動的部分を抑えてでも実行しなければならないし、縦型社会の中では、建前を全面に押し出して、本音は隠さなければならない場合もある。そのぶつかり合いが動物実験賛成派と反対派の決して相容れない基本的な事項であるのに、両者ともそれに気付いていない人が多い。一方は情動的部分、一方は実質的部分をお互いに主張し、批判し、建設的な意見交換は成されていないのが誠に残念である。これまで「科学の発展の為とは言え、人間にはそんな権利は無い、今後、如何なる動物実験も許さない!」とか「貴方達は牛肉も食べている、そのような由来の衣服や靴も履いているのではないか?」というような不毛の議論が戦わされて来た。そんな人々もこれまで、うんざりするほど本音と建前の社会で生きてきたはずだ。そこには相手の気持ちを理解することは無く、お互いが本音でものを言えない者同士のいたわりの精神も存在しない。すべて、自分中心で、世界がその周りを回っていると勘違いしている。科学者も関係者も間違いは改めるべきだし、過去の過ちについても謝罪するべきだと思う。一方、反対派も目線を自分自身に置き換えて他の生命がどれだけ、家族や自分の生命に役立って来たかを自認して欲しい。

私は何故、本音でものを言うと自分も家族も崩壊するかも知れないこの危険な社会で、反対派も賛成派もわけ隔てなくアンのことや動物福祉の重要性を訴えて来たのかというと、どんな人間でも最終的には相手を理解する許容性があると信じて来たからである。アンの物語には英語版もあるが、それを見た海外の一部の反対派から「貴方は死ね!そして実験犬に生まれ変われば良い」と書かれました。もし、そういう輪廻転生が存在するなら、私はいつでも覚悟しています。それが、実験動物技術者として、多くの死を容認して来た立場への贖罪なら、喜んで生まれ変わりたいと思ってます。これが私の本音です。