アンが突然やってきて、そして突然いなくなったこの1年間の思い出が鮮やかによみがえり、胸がいっぱいになりました。
イギリスのれっきとしたアニマル・テクニシャンに対して、横柄な態度を取り続けていた私に、嫌な顔は一切見せず、会うたびに覚えたての日本語で、「オハヨウゴザイマス、コンニチハ」と笑顔で挨拶をしてくれました。
糞尿で汚れた毛布や包帯を洗うときに、私が管理している部屋の洗濯機を使うように言っても、「佐藤さんに迷惑をかけるといけないから」と屋上に持っていって、金盥と洗濯板で一生懸命洗っていたアン。
特に真冬の作業では、可哀想に、彼女の美しい手はあかぎれやしもやけで痛々しいほど荒れていました。また、手術をした後の経過が悪く、いつ死んでもおかしくないイヌの側にいて、一晩中看病していたアンの姿。
それらが走馬燈のように蘇ってきました。
私と出会った後も、飼育関係の技術者や一部の研究者とはうまくいかなかったようで、時々彼女は彼らともめていました。決められた固形飼料以外に、アンは自分で買ったパンや牛乳などを持ち込んでイヌに与えようとしていました。そのため、糞の量が多くなり後始末が大変だというくだらない理由で拒否され、しょっちゅう喧嘩をしていたのを見ています。
研究者からは、実験するたびにイヌの扱いが悪いとアンから指摘されるため、仕事がやりにくくて仕方がないというクレームも出ていました。
母国の実験動物の待遇を見てきたアンにとっては、自分がやろうとしていることがどうして理解してもらえないのだろうというジレンマに陥っていたに違いありません。
一日の作業が終わり、私の管理室の片隅にあるイスに座って、タバコとウイスキーをがぶ飲みしているアンの姿を見ることが日々増えていきました。
私が英語を理解することが出来れば、その頃のアンの悩みを親身になって聞いてあげられたかも知れません。
仕事を終えたあと、うなだれながら、背をかがめ、1人でウイスキーを飲んでいる彼女の姿にはとても寂しそうな雰囲気が漂っていました。
最後に残していったアンのプレゼントは、きっとその気持ちを私に代弁して欲しいという彼女の切実な願いだったのかも知れません。
私の職場に来る以前、こういう“事件”が起きたと聞いています。
彼女の日頃の活躍を耳にしたテレビ局が、番組制作の録画をしている最中のことでした。彼女は突然、「こんなところに出ている最中にもイヌ達は苦しんでいる」と言って、司会者を困らせたという逸話も残っています。
それ程彼女にとって動物のことが心配で、現状を訴えても理解してくれる日本人は少ないと見限っていたのかも知れません。
何事に対しても完璧主義者で、曲がったことが嫌いな彼女でしたが、本国に帰るということはよほどのことがあったに違いありません。私はこの時点においても帰国の本当の理由を、まだ理解することができませんでした。 職場での感情のもつれが原因だと推測していました。