7:  真のアニマルテクニシャン

 アンが毎日職場に来るようになって約3ヶ月が過ぎた。 会えば一応、挨拶をするようにはなったが、私はそれでも彼女に対して気を許してはいなかった。

 ある日のこと。処置室で繋がれていた犬が大きな悲鳴をあげている。

 私は「またか!」というように、処置室に向かうと研究者が3人がかりで犬を押さえつけ、 麻酔処置を行おうとしているところであった。口角に泡を溜め、目は血走っている。 首に食い込んだ針金は今にもちぎれそうである。何度かチャレンジしたのであろう。 注射器が床に転がり針先は大きく曲がっている。

 私はこれまでの経験で麻酔処置には少なからず自信があったので、研究者に声をかけ、 ひとまず犬のそばから離れて貰った。首にかけられた針金を短くし、後肢を思い切り引っ張って、 注射しようとしたその時、後ろから「ダメです!」という声がした。

 振り向くとアンが悲しそうな顔をして立っており、片言の日本語とジェスチャーで犬から離れて 下さいと言っている。そして、私の持っている注射器を渡して欲しいとも言うのだ。

 私はアンに同じように身振り手振りで「この犬は興奮しており、危険だから貴女には無理だ」と 言ったのだが、彼女は聞き入れてくれなかった。

 何回も押し問答をしたあげく、とうとう、アンに注射器を渡す羽目になってしまった。

 もし、アンがイヌに噛まれそうになれば助けようと、側で見守る事にした。

 すると、彼女は注射器を白衣のポケットにしまい込み、イヌの側に座ってしまったのである。

 床は糞尿と血液にまみれているのもお構いなしであった。

 イヌよりも低い姿勢になった彼女はしきりにうなり声を出すイヌに話しかけた。

 英語であるので何を言っているのか、わからないが、たぶん、「可哀想に、怖がらせてゴメンね」 とか、「私が痛くないようにしてあげるね」とか言っているのであろう。

 常に優しい言葉を投げかけ、徐々にイヌの近くに寄っていった。

 そして、興奮が収まった頃にアンの手のひらに自分の唾液を付けて差し出したのである。

 すると、どうであろう、あれだけ、うなり続けていたイヌがアンの唾液を舐めたのである。

 舐めさせながら、一方の手で優しく、頸背部から頭頂部にかけて撫で回し、すっかりなつかせて しまったのであった。もちろん、何の抵抗も無しに前肢からの麻酔処置はスムーズに終わった。