3:  実験助手時代

アンが来日した頃は、私は動物実験の仕事を始めたばかりでした。

1964年、日本で初めてのオリンピックが東京で行われました。その2年後、私はそれまで勤めていた会社の経営悪化が理由で退職して、長兄が勤務する阪大学医学部付属病院に実験助手として働くことになりました。

実験助手といっても、医者のポケットマネーや研究費で雇われるアルバイト職員みたいなもので、人事から出された身分証には「実験補助員」と書かれてありました。

仕事としては、犬に生体に悪影響を及ぼさない半減期の短い放射性物質を投与し、特殊な装置で排便した糞の中にある放射性物質の排出量を調べることでした。

その当時は、放射性物質の取り扱いもそれほど厳しく規制されてはおりませんでした。今ならば、病院の中庭で排便した犬の糞便中にそのような物質が取り込まれていると分かっただけでも大変な問題になることでしょう。

初め、大学病院なのに教授個人の名前で講座名が書かれてあるのを不思議に思いました。この頃は教授の力が絶大な時代で、その教授の名前で「〇〇内科」とか「〇〇外科」と教室の看板に書いてありました。

俗に「大名行列」と呼ばれていた総回診には、教授を先頭に助教授、講師、助手、副手、婦長などがぞろぞろと後に付いて歩き、それを迎える入院患者さんが事前に婦長などから伝えられて、身の回りを整理整頓したり、新しい服の着替えなどを済ませていた光景を思い出します。

ベストセラーで有名になった山崎豊子著『白い巨塔』の世界がそこにありました。病弱の患者さんが正座をして教授を迎える姿は、滑稽を通り越して哀れとしか言いようがありませんでした。

今でも医歯薬系大学における教授の力は絶大ですが、あの頃に比べれば随分と民主的になったと思っています。

毎日、犬の散歩と排便処理ばかりを続けて、いいかげんにうんざりしていると、タイミング良く、向かいにある外科の実験室で研究している医師から、「どうや、こちらで仕事しないか?」と声がかかりました。

毎日、心臓移植に関係した基礎的な実験が繰り返されていて、放射線科と比べて、何かと派手な部署で、私はすぐにオッケーの返事をしました。

とは言っても、今の職場を紹介してくれた長兄の立場もあるので、一応、放射線科と外科の医師との話し合いが持たれ、双方合意の下で異動することになりました。 給料もそれまでの1ヶ月7千円から8千円にアップされ、私は一生懸命働きました。

新しい職場では、色々な作業がすべて同時進行で行われるため、複数の医師から声がかかり、実験中でも特別に許可をもらって、服を着替えて手術室に入室したりしました。

朝早くから実験用の犬を10頭、屋上の飼育室から地下の実験室に運んで、 麻酔処置などをして、研究者がいつでも実験出来る状況にしておくのが主な仕事です。

医師が忙しい時は、開胸手術まで行ったことがありました。

こういう“修業”のおかげで、私はいつのまにか最先端の技術を自然と習得していくことになりました。その頃は、大阪大学病院の外科医が、日本でも指折り数える優秀な心臓外科医とはまったく意識しておりませんでした。

家庭の事情で、私は中学校しか出ておりませんでした。どうしても、進学したいという強い希望をもっておりましたので、夜は仕事が終わってから、憧れだった高校の夜間部で勉強しました。幸いなことに、挫折することもなく、無事4年間通い続けました。

この頃の仕事に関してのエピソードとして、こんな思い出があります。

屋上にある実験犬の飼育室から、別棟の実験室に犬を移動している時のことでした。

たくさんの患者さんたちがいる外来棟を通ってエレベーターに乗った時に、突然、犬が鳴いたのです。

一緒に乗っていた患者さんが私に尋ねました。

「ここは獣医病院ですか?」

「この犬はどこが病気なんですか?」

私は答えに困って、「これから実験するところなんです」とは言えず、

「エエ、ちょっと調子が悪いのでこれから治療します」

「そう、可哀想に、ワンちゃん、頑張ってね」と、このような会話を交わしました。

その時、私は血だらけの白衣を着ていましたし、患者さんにすれば、私のことをてっきり獣医だと思ったに違いありません。

足の動脈を露出切開して、チューブを入れ、最後の一滴まで血液を搾り取る手術をする予定でした。

最初の頃は死んでいく犬に対して、私はそのたびに胸が痛みました。しかし、同じような作業を数年間も続けていると感覚が麻痺し、通常の仕事として平気になっていきました 

まして、研究者からは、

「佐藤君の技術は誰にも真似が出来ない」などと、おだてられ、その頃の私は完全に有頂天になっておりました。

患者さんからの質問に対して、素直にありのままのことを答えることが出来ず、まるで自分がエライ獣医にでもなったように錯覚していた時代です。今、振り返って冷静になって考えれば、顔から火の出るような恥ずかしい思いがします。

当時、犬を運んでいたエレベーターは手動式で、専用のエレベーターガールがいた時代でした。

犬を運ぶたびに彼女らからは、「臭い」とか「うるさい」とかしきりに苦情を言われるので、朝早く出勤して、自分で守衛室に保管してあるエレベーターの鍵を借りに行き、一人で犬を運んだことも度々ありました。

冬、実験室には寒さしのぎのため、火鉢が置いてありました。

今の様に、ドアや窓などが密閉式ではなく、すき間風が通り抜け、酸欠になる心配はありませんが、それでも第三者の人にとっては、犬の鳴き声と臭いはたまらなかっただろうと、容易に想像されます。