96. 「弾き語り」

動物福祉講演でギターの弾き語りをしたのは初めての経験だった。

これまでは地区福祉活動の一貫で、地元の福祉施設や老人会などで何度もさせてもらっているが、今回は対象者が違った。

ある動物保護団体の要請で一時間の講演を依頼されたのがきっかけで主催者の許可を取った上で、披露させて頂いた。来年の夏に訪英した時に持参するつもりで作った「アンに捧げる詩」だった。歌詞はすでにこのエッセイで発表してあるが、作曲はまだで、職場から帰ってから、何度もチャレンジして講演間際にやっと完成した。

ところが、本番前に風邪を引いてしまった。薬を飲んで熱を抑え、会場に行ったが、喋りは何とか無事に終了したものの、弾き語りは最悪だった。

自宅練習では比較的うまく歌えたのに、殆ど声が出ないのである。 マイクとはいえ、かすれた声で会場の人はきっと聞きづらかったと思う。それでも涙を流してくれた人が大勢居たという事を後で聞いて、とても嬉しかった。

アンに出会ってから彼女が亡くなって別れなければならなかったことや彼女が日本人に伝えたかったこと、「動物福祉の延長に人の福祉がある」ことを一連の歌詞に込めて歌わせて頂いたのだが、講演の締めくくりとしては大成功だったと思う。

参加者が少なかったこともアットホームで良かったし、会場設定も壇上の高いところから見下ろすような姿勢でなく、同じ目線で話が出来たことも素晴らしい交流につながったのではないかと思っている。

講演の最初に3つの約束「先生と呼ばないこと」「残酷な写真が出ても目をそらさないこと」「どんな初歩的な質問でも遠慮しないですること」をさせて頂いた。

動物福祉を語るときは研究者でも一般社会人でも目的を同じくする人々の場合は 私自身が教えてもらうことも多く、「先生」の話を拝聴するという態度ではすでに隙間があるようで私は好きでないこと。そういう意味では気楽に「佐藤さん」と呼ばれるほうが本音で話し合えるので、敢えて約束をさせて頂いた。

「残酷写真」については歴史的証明として実際にあったものを紹介したが、一部の 動物愛護運動家はこういう写真を今でも実験動物の現場で行われていると一般の 人々に伝える手段として使われていることに対しての苦言と、そういう昔から関係者はどれだけの努力をして改善して来たかを理解してもらうための相対的な写真として説明させて頂いた。

ただ、こういう努力は一部の実験動物関係者の手によっていつでも瓦解する危険性も孕んでいる。全体的なマニュアルや査察制度の法的な体制がない現在ではそういう危険性「こんなことは今はしていない」と、関係者が 堂々と言えるような社会になって欲しいとの願いでもあった。

最後の「質問」については心配されたこともなく、予定された一時間の討論もあっという間に過ぎるほど様々な質問が出た。私だけでなく他の講演者に対しても素直な質問が飛び交い、お互いが真剣な討論に終始した。

「動物保護活動」と言えばすぐに「動物実験反対運動」に結びつける実験動物関係者もいるが、決してそんなことはなく、敢えて彼らの運動によって「動物実験の本質」が 問われることによって、日本も国際的な流れに近づいていると理解して欲しいと思った。