9:  突然の帰国

アンへの不信感もすっかりなくなり、私の部屋で一緒にコーヒーや紅茶を飲む機会も増えてきました。

仕事上のことでは、彼女は自分の技術を誇示するわけでもなく、私が困ったときだけ手助けに来てくれました。

日曜、祝祭日も休まず、清掃作業をするために職場に来ていたということは当直の飼育関係者から聞いていました。

屋上には約70頭、私の管理区域には10頭飼育されていましたが、これらの合計80頭ほどのイヌの世話を1人でするのだから、1日はアッという間に過ぎてしまいます。

清掃だけではなく、散歩をさせたり、手術を終えたイヌの手当てまですませると、家に帰るのは毎日9時頃になってしまいます。

私もたまに実験の手伝いをして、管理室のソファーで泊まることがありましたが、朝の8時に目覚めると、もう彼女は職場に来ていて仕事をしているのでした。

アンと知り合って、やがて一年が過ぎようとしたある日のこと。あれだけ毎日、熱心に動物の世話をしていたアンがふっつりと来なくなりました。

最初は体調でも崩して休んでいるのかなと思ったのですが、1週間たっても一向に姿を見せませんでした。

彼女の受け入れに立ち会った先生に聞くと、少し体調を崩しどこかの病院に入院したらしいが、連絡先もわからないということでした。

心配をしながらも、見舞いにも行けない日々が続きました。

それからしばらく経った月曜日の朝のことでした。

飼育担当者から私の部屋に電話が入りました。

「忘れていましたが、先日の日曜日にアンの友人という人が来て、佐藤さんに渡して欲しい物があると言って帰って行きました。何かとても急いでいるようでした」

それを聞いたとたん、私は受話器を置き、慌てて飼育担当者の部屋に飛んで行きました。

もどかしい思いで私はアンからの品物を受け取りました。中にはタバコとウイスキーが入っていて、走り書きの手紙も添えてありました。

手紙にはカタカナ文字で、

「サトウサン、 アリガトウ、ワタシハイギリスニカエリマス、イヌコト、 タノミマス。 アン・ロス」

とたどたどしく書いてありました。

一瞬、私は何のことかわかりませんでした。

どうしてイギリスに帰らなければならないのか、何か急用でもあったのだろうか。

手紙を読んだすぐ後には、また日本に帰って来るだろうと楽観的な気持ちでしたが、文面を何度も読み返しているうちに、もしかしたら、もうこのまま、アンに会えなくなるのではという不安にかられました。

再来日するのであれば、「イヌのこと頼みます」とは書かないはずです。

何度も何度も読み返しているうちに、手紙の文字が次第にぼやけてきて涙が溢れてきました。

彼女はどんな思いで帰国したのでしょう?イヌ達はあれだけアンになついていたのに!どうして何も言わずに、 突然帰ってしまったのだろう?

彼女の気持ちを考えると私はしばらく茫然となり、仕事が手につかない状態でした。