89. 「I君パート2」

毎年、正月前になると我が家の餅つきに参加することだけを楽しみにしているI君のことは以前にもこのエッセーで書いた。

彼は何十年も大阪府南部の精神病院で入院しているのだが、今年も10月くらいから執拗に電話が掛かって来た。「佐藤さん、今年も行くから」そのつど、「I君も良く知ってる我が家のおじいちゃんが亡くなったので今年はしないよ」と返事をするのだが、一週間もすると忘れるのか、また、同じような電話がある。最近やっと「知らんかったので葬式にも行かず、すんません。年賀状も出しません」という内容に変わって来た。

本当に律儀な男である。彼が子供の頃に釣りを教えただけなのに、ずっと私を慕ってくれて以後、入院生活をするはめになっても欠かさず連絡をくれる。これまでに色々な人との出会いや別れを経験して来たが、一緒に釜の飯を食って一晩中騒いだ連中でも、音沙汰無しで生きているのか死んでいるのかわからない者もいる。パソコンを覚えてHPを立ち上げた時は物珍しさもあったのか、多くのゲストが来てくれ、真剣に討論を交わしたり、アンの生き様に感動してくれた人々とのメール交換も始まったが、長続きはしなかった。メールの過去ログを見ていると「ああ、こんな人も居たのだなあ」と、たった二年の歳月で懐かしく思えるのが不思議な世界である。

結局、皆さん自分が生きていくのに必死なのだろう。この混沌とした世の中で 精神的な余裕を持ち、泰然とした気持ちを継続させていくにはかなりの努力が必要である。 細くても良いから一本の糸を切らずに保ち続けることは生半可な気持ちではやっていけない。

私は学生時代、一枚の切符で一ヶ月ほど北海道内を回ったことがある。所謂、無銭旅行というやつで、手持ちの金が無くなったらアルバイトやお手伝いをして飯代を稼ぐ方法だった。

とある漁村の浜で寝ていたら、一人の老婆に声をかけられ、その方の自宅で三日間、お世話になった上、帰り際にお小遣いまで頂戴した。決して立派な家でなく、その日の生活を切り詰めているような家だった。いつか、恩返しをしようと決めた行動が三十年にも渡る訪道となり、畑の土起こしや屋根に降り積もった除雪の手伝いが慣行になった。

人は目標を決めたら迷うことなく突き進むことが大事である。結果は後からついてくるもので、リスクはどんなものでもあることを覚悟しなければならない。迷ったらやめる事もひとつの決断である。

そういった意味でも世間から遮断されたI君だからこそ、迷うことなく「餅つき」というたったひとつの目標のために生きていくことが出来るのかも知れない。私と一年に一回会うために日々の格子窓の中で手作りの財布や煙草ケースを黙々と作っている彼の姿が浮かんで来るが、その姿はいつの日かきっと実験動物福祉の明るい未来がやって来ると信じて過ごして来た私の姿とダブって見える。