人は年をとると思い出に生き、若いときは未来に生きるという。
それぞれの人生模様を生きて来たお年寄りは過去の思い出に浸り、なるべく悪いことは忘れて良いことばかりを思い出す。若者は現在の自分や環境に「こんなはずではない」と思いながら、明るい未来を想像する。
人生80年と言われているが、一体、この「思い出」に生きるようになるのはいつ頃からだろうか?すでに人生の未来が見えて来た時点で思い出に生きるのだろうか? 人生の節目ごとに思い出を積み重ねて行くうちに良い思い出しか残らないのだろうか?二十歳の頃は十代の自由な日々を思い、三十になれば 二十歳代の頃の若い自分を思い、四十になれば「ああ、とうとう人生の半分まで来た」と感慨深い考えになるのか?五十台では定年を数えて、バリバリだった頃のサラリーマン世代を思い出すのか?、六十になって初めて未来への諦めに達観するのか?この先の人生の生き方を模索するのか?
いずれにしても、?マークで一生を終えるのが常である。未来には必ず、希望とともに「死」というものが待っており、これほど平等なものはない。希望を叶えるために一生懸命努力した人もしない人も等しく生命の終焉を迎える。生きていた時の財産は思い出とともに消えてゆくのだが、年を経て思い出に生きることはそう意味では非難するに当たらない。
私自身も「最近の若い者は」という言葉に反発していた時代があったが、今、その年齢に近づいたら、同じ言葉を発しているし、過去の良い思い出に浸っていることが多くなった。誠に勝手なものだが、人間というものは得てしてそんなものかも知れない。
ある本で「人はこの世におぎゃーと生まれた時点で複雑な人間関係の中で死にゆく運命に向かっている。最初の産声はその悲しさのゆえんである」と書いてあるのを見たことがある。
まさにその通りかも知れない。順風満帆で一生を終える人はまずいないし、誰でも一度や二度は人生を早い目に打ち切りたいと思ったことがあるはずだ。その時の気持ちは「何故私だけ?」という強迫観念に囚われ、際限もなく孤独感に襲われる。
私も何度かそういう気持ちになったし、これからもあるかも知れない。別に死そのものが恐ろしいものでもないし、いずれ迎えるのだからという気持ちだったが、不思議とその時期をクリアーすると馬鹿な考えをしたなあと思うのである。
人間というのは元々弱い生き物だし、いくら粋がっていても、その原因を作った奴の為に死んだら、そいつが喜ぶだけだと思った。それが理由で「人生途中打ち切り論」を撤回したのだが、世の中にはそういう連中も多いが、悲しませてはならない人もいる。生きるということはそんな人の為に生きるのであって嫌な思い出の原因となる連中のことはさっさと切り捨ててしまえば良い。切り離すことが出来なくても、うわべだけの付き合いで充分である。心で舌を出していれば良い。
人生僅かになって、例え未来に希望がなくなっても、悪い思い出はなるべく忘れて、 良い思い出だけに生きることはそういう意味でも大事であると思う。ただ、昔、社会的地位が高かった人が定年を迎えても同じ気持ちでいたら益々、周囲から友人が遠ざかって行き、そのうち孤独な老人になってしまう危険性もある。
地域の福祉活動をしていると時々、そのような老人を見るが、組織の中で上位に立っていた人ほど、非協力的で傲慢な方が多い。
神様の贈り物であると言われている「呆け症状」も長寿社会になればなるほど増えて いるが、これまでの人生の苦しみから脱することを思うと、一概に科学が発達して、改善薬などが出回ることがその人の幸せに繋がるかどうか迷うところである。