84. 「携帯番号」

阪神大震災以後、今や携帯電話は市民権を得て、一人に一台は当たり前で、二台も三 台も持っている人が居るという。かく言う私も、二年前についに買ってしまった。それと言うのも、街角の公衆電話が次々と姿を消し、緊急連絡が出来なくなったからである。確かに便利であるが、のべつくまなしに電話をかける訳でなく、必要に応じて使っている。色々な機能がついているが、殆ど受信専用機みたいなもの である。それも、大抵は電源を落として、留守番電話と化しているので、電源を入れた時にお知らせが入り、 初めて通話することが多い。

通勤電車に乗っていると若い人を初め、多くの方がメール送信している姿を目にするが、一種異様な光景である。数年前までは新聞か雑誌、あるいは小説を読んでいる人が多かったが、今ははるかにメール送信者のほうが多い。あの小さな字を書き込んで通信している人はどうでも良いような内容でも返信をくれたら嬉しいのだろうなと思いながら、例えば隣の車両に乗っている友人とも通信を交わしていると聞いてびっくりした。相手の顔を見て話をするのが苦手な人はこの手段によって随分、救われたとも聞いているが、人間の最大のコミュニケーションである直接会話がおざなりにされている現状はとても寂しいものである。

とても口には出来ない会話でも個人同士のメールでは書けるが、直接会話だと周囲に他人が介在することが多いので、言葉を選んでしまう。それが相手や他人に対する配慮であって、自己昇華に繋がるのであるが、文字自身に感情は存在しない。

文字の羅列イコール正確な意思表示だとは限らないのだが、受け取った側はその文字の向こうにある感情を読み取ろうとする。

「愛している」という言葉を何万件書いても、直接、「愛している」と言う言葉には到底かなわない。たった一言「ごめんなさい」と言えば理解してくれるのに、それが言えないばかりに誤解が深まり、後戻り出来なくなった例はたくさんある。

携帯も使い方によっては便利なこともあるが、元々、電話は遠方に居る人や、緊急連絡をする手段としてあると思っている私からすれば、無言で必死にメールを打っている姿にはとても緊急性があるとは思えないし、言葉を大事にして欲しいと思うのだが、こういう考えそのものが時代遅れなのかも知れない。

ところで、携帯電話に登録している人数は千差万別だろうが、平均的にどれくらいの 家族、友人、知人を登録しているのだろうか?私などは職場関係以外に地域のボランティア活動をしたり、趣味の活動を通じて多くの知人がいるので、物凄い数の電話番号を登録してある。

あ行からわ行まで数えたらとんでもない数字になるので、すでにお付き合いをやめた人を探して抹消するのも大変である。すでに物故された人も含まれるが、何故かそういう人の電話番号は削除する気になれない。一昨年亡くなった甥っ子の番号もそのままであるが、この番号を通じて彼と色々と話したことを 思い出すと、まだ、この電話番号の先に甥っ子が生きているような感じがするからである。

単なる数字であるが、この数字の向こうには様々な人生を生きている人が居る。例えその人の人生が終焉を迎えていたとしても私の思い出の中に脈々と生きており、私自身が幕を閉じるまではこの番号は大事に登録しておこうと思う。

年賀状も同様で、ご家族から 訃報が届いた時点で、これまで毎年、差し替えていた賀状は最後の一枚を永遠にファイルしてある。

先日も親しい釣り仲間が鬼籍に入った。彼の番号も永遠登録ということになったが、果たして、私が死んだ場合はどれだけの人が永遠に残してくれるだろうか?