78. 「父母のこと」

 我が家の近くには3つの墓がある。ひとつは佐藤家の墓で母や父、継母が眠っている。  これは自治体が管理する墓所で、土地代は格安だった。

墓石を買ったのが三十年ほど前であるが、月参りは欠かしたことが無い。残りの墓は甥っ子が眠る墓と義父の墓である。

一昨年、急死した甥っ子は姉夫婦が建てた先祖を祭った所に収めてあり、義父の墓所は最近、義母の希望で探し当てた自宅の丘陵地帯の見晴らしの良い場所に作った。  本来は佐藤家の墓所の横に祭りたかったが、公営の墓所に新しい墓を建立するには 色々と制約があり、めんどうなのでここに決めた。いずれも車で15分以内の場所だ。

墓参というと、遠い田舎に行って参拝するイメージがあるが、自分の住んでいる近くにあると何かと便利が良い。はしご酒ならぬ「はしご墓参」であるが、半日で全部参拝出来る。お盆の日は言うに及ばず、月参りの時でも順番に線香と花を持って行けば事足りるのである。

母は50過ぎで亡くなり、父は80まで生きた。その母の年齢を越して、定年まであと僅かになった今、つい、これまでの人生を考えてしまう。蛍光灯もテレビも無かった母と住んでいた時代。貧乏でも狭い家でも子供にはひもじい思いをさせないようにと、小柄な母は自分はボロを纏い、近所のお嬢さん達の美しい和服を縫ったり、あらゆる内職をしながら生計を助けていた。

残念なことに父は飲んだくれで、せっかく稼いだ給料も大半は酒に消えていた。毎晩のように荒れ狂って母に暴力をふるう姿を見て育った私は絶対にアルコールみたいなものは飲まないと決めていたが、成人してからは付き合いで飲むこともあった。

しかし、トラウマになっているのか、酒の席上で愚痴をこぼしたり、性格が変わる人との付き合いは一度で終わったし、楽しい酒席で無い限り行く気はしなかった。

そんな父も母が亡くなり、継母を迎えて、私も家を出て一人でアパート住まいをする ようになってからは随分と変わり、年とともに好々爺になっていった。

十数年後に継母にも先立たれて、自宅近くの銭湯の横で屋台のたこ焼きを生活の糧にしていたが、真冬の寒風吹きすさぶ場所で、鼻水を垂らしながら、お客さんに頭を下げて商売をしている父の姿を見るたびに、やるせない気持ちになった。

当時、まだ結婚して日も浅かったが、一人住まいでは何かと不便でしょうと、妻が気を利かして父を呼び寄せ、一緒に住むことになった。

最初のうちは気を使っていたのか、大人しかったが、またぞろ、アル中の虫が騒ぎ始めたのか、飲酒が始まった。夜中に起きて父の姿が見当たらないと、近くの酒屋の自動販売機コーナーに行けば見付かるというケースが増え、そのうち、呆け症状もひどくなり、何度も他の地区の警察から保護しているという連絡を受けた。

飲酒は医者にも止められていたので、現場を発見するたびに怒って酒を取り上げたが、結局は肝硬変で入院して死ぬまでベッドの下に隠して飲んでいたのを憶えている。一度、隠してあった一升瓶に水を混入したことがあったが、さすがに酒飲みで、飲んだ 途端に吐き出したと同じ入院中の患者さんに聞いたことがある。

本当にどうしようもない父であったが、まだ、元気だった頃、死ぬまでに一度は外国に行って見たいと言ったので、狐だの蛇だの、何でも神棚に祭ったり、南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も関係なしに仏壇で拝むのが好きだった父の希望を叶えてやろうと、仏教国のタイに連れて行ったことがある。

もともと、髪の毛が一本もない父だったので、タイ国では坊さんに間違われて沿道で拝まれたり、寺院でも大切に扱われたりしたが、帰国してからは老人会の仲間に「末っ子に外国旅行に連れて行ってもらった」と何度も自慢していたと聞いた時は嬉しかった。

兄弟達は「苦労したお袋と違って親父は随分、勝手で幸せな生活を送った」と言うが、親の背中を見て子は育つという言葉から考えれば、そんな父みたいな人間にはなりたくないと思って育つこともひとつの教育だったと今は笑いながら言えるのである。