75. 「杜氏春」

芥川龍之介の作品に「杜氏春」というのがあることを知っている人は多いと思う。ある一人の貧乏な男、杜氏春は常に金持ちになって友人達を見返したいと望んでいた。

 ある日、寝ていた木の下で夢を見た。夢に仙人が現われ、「お前の望みを叶えてやる」 と言った。その通り、希望が叶えられるのだが、金があるときだけ友人が集まって来て、 無くなると友人達は去って行った。

その後、何度か無理難題を仙人に頼むたびに望みは叶えられるのだが、結果はすべて同じだった。杜氏春は最後に自分も仙人にして欲しいと頼むと、「厳しい修行が待ってるが、それでも良いか」と聞かれた。杜氏春はもう、人間を信用しなくなっていたので、どんなことでも我慢すると答えた。

ある山の頂上に連れて行かれた杜氏春は仙人から「これから三日間、お前の身に色々なことが起こるが、決して口を聞いてはならない。もし約束を破ったら仙人になりたいという望みは捨てなさい」と言って姿を消した。山の頂上に座っている杜氏春に化け物や美女達が次々と現われては脅したり、誘惑をしたりしたが、じっと我慢して一切、口を聞かなかった。

あと少しで三日間が終わるという時に杜氏春が一番愛していた亡母が現われた。そして、切々と杜氏春に話しかけた。あの世で苦しんでいる亡母が去ろうとした時についに「お母さーん!」と叫んでしまった。

その途端、山の頂上にいると思った杜氏春は木の下で目が覚めた。傍には仙人がたたずんでいた。仙人は「お前がもし、母親の姿を見ても口を聞かないようならば殺してしまうつもりだった」と言った。杜氏春はその言葉を聞いて、貧乏でも正直に生きる道を選んだ。という顛末だったと記憶している。

この物語を知ったのは小学校の図書館だった。文学作品を漫画にしたものだったが夢中で読んだ。幼いながらも感動したのを覚えている。人の生活を通してこのようなことは普通にある。特に一般サラリーマンは金銭欲、出世欲に意欲を示し、競争社会を生き抜いているのが現実だ。それはとりもなおさず、浮かぶ人があれば沈む人がいるということだ。当然、浮かんだときは名誉や金銭に囲まれ、それを慕って人が集まる。沈んだ人には集まらない。かつて浮いていた人も沈んでしまえば同じことだ。飛ぶ鳥を落す勢いの時はそのことに気づかず、沈んだ時に初めて人間の価値観が証明される。職場では色々な経験をして来たが、苦しんでいる時でも離れなかった 友人とは今でも心を許して付き合いが出来るが、落ち目になった時に離れて行った友人とはいくら立場が好転しようと元の友人には戻り得ない。例え、友人と違った立場であっても同じことで、利害関係がある業者でも心情的には許せないのである。目ざとい業者は元の力を取り戻した途端に頻繁に来るようになるが、それが商売の基本と言えど、私の奥深い気持ちまでは理解していないようである。

HP管理でも同じことで、有名なうちは色々な人が集まって来るが、ひとたび人気がなくなると、どんどん去ってしまう。そのようなHPを沢山見て来た。人間は元々浮気性であるが、継続の難しさがここでも問われる。

流行は衰退の始まりと割り切っていることが重要であるが、これまで大流行した ルービックキューブやタマゴっち、古くは抱っこちゃん人形、テレビゲームの始まりと言われているインベーダーゲームも衰退するとは誰も思っていなかったと思う。今、大半の人が持っている携帯電話もどうなるかわからない。次々と新しいものを求めている現代人の姿は「杜氏春」に似ていると思うのは私だけだろうか?