単位という字を辞書で見ると、「数量を計算する時、基準となる数量の名」とまるで 謎解きのような書き方がされている。ようするにものごとの比較なのだが、この「単位」を人間社会で広げていけば面白いことがわかる。
最初は個人であるが、良く「個人の責任」という言葉で使われている社会的責任の幅というか、スタートというべきか人として生まれ育って社会に溶け込んでいくには必ず通らなければならない暗黙のルールである。無人島などで一人で生活をしていたらこの最小単位は広がることは無い。
次に家族という単位がある。結婚して家族を持つとそれなりの責任が生じて来る。 一家の大黒柱として存在するなら、家族を守ることからスタートして、これは一生続く。 同時進行であるが、社会的単位として会社や近所付き合い、趣味の集まりなど単位は どんどん広がっていく。卑近な例であるが、これを個人的なレベルから見ていくと、ある一人の男性がいて、その人が結婚し、一家を形成したとする。すると、自然と住居地域の自治会に属すことになり、しばらくすると数軒の班長になり、数年後には自治会長になってしまった。
自宅では家族単位だけを見ていれば良かったのだが、班長になれば、その班のことを 考えなければならない。班代表として自治会役員に苦情を言ったり、常に班側からの 目線で物事を見るようになる。ところが、今度は自治会長となり、より広い地域のことを知らなければならなくなった。今まで気付かなかった違法駐車の問題や災害時の対応、住民同士のコミュニケーションを図るために色々な行事もやらなければならない。 また、各班長からの苦情や意見を集約してスムーズな自治会運営をしなければならないなど、個人というものを抑えた上での活動が主体となってくる。
会長として決められた任期を無事終了して、ほっとする間もなく、今度はより広い地域の福祉委員会会長に祭り上げられる。自治会長だけでも千人近い住民の世話をして来たのに、今度はそんな自治会が5つも6つもある地域の世話をしなければならなくなった。障害を持った方を始め、独居老人、子育て不安に悩んでいる若いお母さんなどの相談役として、民生委員や他の役員さんの協力の下に自治会長とはまた違った目線で活動をしていくことになった。完全なボランティアであるものの、うまく運営して当然、結果として対象住民の笑顔だけがやりがいと感じる仕事であるが、こうなると完全に個人や家族は後回しとなる。まして、ルーチンの仕事をもっている立場としては 大変だが、こういう社会的要請が個人に来るというのも何かの巡り合わせであろう。
ちなみにこの「男性」というのは私であることはすでにお気づきの方もあろう。(笑)「動物福祉の延長に人の福祉がある」と、亡きアンが教えてくれたことを実践しているだけである。この後、もっと広がりを見せて行けば、区長や市会議員のエリアになるのだろうが、さすがにそれだけは遠慮したい。そういう見方からすれば地方議員、国会議員の中には自分がどの単位に属し、どれだけ、住民、国民の方を向いて仕事をしているのか今一度、猛省を促したい人がいることも確かである。ましてや「日本」という国家単位の頂上にいる小泉首相などは国際的協調が大事と言いながら、目線は常に米国だけにしか向いていないのは如何なものか?と、疑問に思っている人は私だけではないだろう。本当に国際的単位から日本が認められるには何が必要かという事をもう一度考え直して欲しいものである。