64. 義父の思い出

義父が81年の生涯を閉じた。

平成16年が穏やかに明けた、正月の3日に急変し、救急車で運ばれたが、数時間後には息を引き取った。

たまたま、義妹夫婦も遊びに来ており、最後の瞬間は家族全員で見守ることが出来た。苦しむこともなく、穏やかな死に顔だった。

義父との出会いは妻と出会ってから凡そ一年後くらいだったろうか?

同じ学校に通う勤労学生同士として、妻と知り合ったのだが、本格的な付き合いをしてからもなかなか、両親には会わせてくれなかった。

当時、私はエレキバンドを作っており、この頃のバンドというのはそれだけで不良のレッテルを貼られた時代だったから、妻も会わせたくなかったのだろうと思っていたが、決してそうではなかったようだ。自宅が近くなので、何度も妻の家に遊びに行こうと思って言っても首を立てに振らない。そのうち、黙って行くことにした。玄関に着いて、「こんにちは!」と何度も呼ぶのだが、家人は向こうを向いて反応が無い。

やっぱり、不良が来たと思っているから無視されているのだと思いながら、途方に暮れていると、義妹が帰って来たのか、「お姉ちゃんは銭湯に行ってるよ」と言ってくれた。義妹は日頃から私のことを妻から聞いていたらしく、人懐こい顔で「中に入って待っていたら?」と言ってくれたのを幸い、家の中に入ることにした。「お邪魔します」と言って両親らしき人に挨拶をしたのだが、こちらを見ることなくテレビの方向を向いていた。内心、失礼な人だなと思っていたら義妹が「お父さんもお母さんも耳が聞こえないの」と言ってくれた。

そして、義妹の紹介で私に気がついた両親は慌てて、頭を下げたり大きなジェスチャーで上に上がれと言ってくれるのだが、私はどのように対処したら良いかわからない。そのうち、妻が帰って来て、申し訳なさそうな顔で私の姿に驚いていた。恐らく、両親が障害者であるということを黙っていたことが恥ずかしかったのであろう。あるいは私がそのことを知ったら付き合いが破綻するとも思っていたのかも知れない。

その後も妻の実家へはたびたび訪れることになり、むしろ、私の家よりもそちらにたむろしている時間のほうが多くなって来た。晩御飯も一緒だし、大学病院へのアルバイト勤務の際にも弁当まで作ってもらう有様である。そのうち、アルバイト代も全部、家内に渡して、まるで居候のような形になり、自宅へは寝に帰るだけの生活になってしまった。

学校も卒業し、正式に公務員となって結婚するまで、都合7年間の付き合いの中心は常に妻の家族と一緒だった。もちろん、自宅に帰れば実父や継母もいたが、私の求めていた家族の温かさとは随分、違う家庭だったので必然的に妻の実家に溺れていったのかも知れない。

義父には随分色々な所に連れて行ってもらった。趣味が釣りだったので、殆どが海であるが、基本的には私も自然派なので、どっぷりと嵌るまで時間はかからなかった。

最初のうちは義父の使っていた竿のお古を使用していたが、そのうち、給料を貰うと新しい道具を買って北は北海道から南は九州、沖縄まであらゆる場所で竿を振るようになっていった。また、新しいポイントを発見したら釣り雑誌や新聞に投稿する楽しさやクラブを結成して全国規模の釣り連盟に所属することにも目覚め、気がついたら安い家を一軒買えるほど使っていたと言うのが妻の口癖になっている。

唯一、釣り好きの二人がしばらく竿を手にしなかった時代がある。

それは私にとって十二年目で初めての息子、義父にしてみれば、心配していた障害を持つ孫ではなく、健常者の孫が生まれた時である。成長過程を録画するのに忙しい義父は片時もカメラを離さなかった。孫が好きなドラえもんの漫画はすべて録画取りしていたし、保育所や小学校でのイベントには早くから並んで場所取りをしていた。私も釣行記を雑誌や新聞に投稿するのはやめ、釣りクラブも脱退し、竿を出す時は必ず息子が一緒という釣行パターンになってしまった。

ひたすら、息子を中心に家族がまとまり、子に恵まれなかった義妹も自分の子と変わらないくらいに可愛がってくれた。中学生になり、自立心が出て来て、友達と遊ぶことが多くなってからは、また、義父とのコンビ釣行も時々ではあるが一緒に行くようになったが、以前ほどではなかった。この頃には近くのマンションに両親も住むことになり、お互いの行き来は益々多くなって来たが、そういう義父も寄る年波には勝てず、年々釣行回数が減り、私が釣って来る獲物を楽しみにするようになって来た。一緒に行くことが出来ないのは寂しいが、新鮮な魚を楽しみにしてくれる義父が元気なうちはどんどん持って帰ろうと、思っていた。

聾唖に加えて、昔働いていた鉄工所で三本の指を無くしており、そんな不自由な手でも義父は名人だった。釣り以外でも日曜大工に関してはご近所の評判で、設計図もなしに、どんどん家具を作り上げていたのを思い出す。

釣り仕掛け作りも器用で、義父の釣り道具入れには市販の仕掛けなどは一個も入っていなかった。私も真似をして作ったが、今でも手作りにこだわるのはそんな背景があるからである。義父はもともと、争いの好む人ではなかったが、結婚後も妻や義母と揉めた際は必ず、私の味方になってくれた。

男同士にしかわからない問題も手紙に書くと理解してくれたし、下手糞な手話でも一生懸命、相槌を打ってくれた。時には義母に叱っている姿も見ることがあった。

そんな義父がふとしたことから、骨折し、入院生活のあと、パーキンソン病に冒され、マンションで義母に面倒を見させる訳には行かず、私の家で寝たきりの介護生活が始まった。わずか五年間という歳月の後、他界してしまったが、私にすればこの五年間が最も家族としての絆が強まったように思えてならない。

介護に疲れて、お互いがギスギスした時もあったが、一番辛い思いをしているのは義父だと何度も自分に言い聞かせては心にムチを打った。

自分の父とはいっても妻は本当に良く頑張ったと思う。幼稚園の仕事から帰ってすぐに義母と交替して介護に当たり、オシメの交換から体位変換もまめに行っていた。息子も嫌がらずに手伝っていたし、一人の家族のために皆、一生懸命だった。

亡くなる数日前の餅つきの日も、義父が作った石臼台で一生懸命、餅をついている家族の姿をベッドから見ながら義父は何を思っていただろう?と考える。

もしかしたら、「家族」とは一個の餅を作るために米を炊き、その米を皆でついて練り固めていく作業に似たものなのだよ。炊き方が悪くても、つき方が悪くても、こね回しが悪くても丸め方が悪くても良いものは出来ない。要するに家族の一人がどこかで手を抜くと、誰かが辛い思いをするという事を身を持って教えてくれたのかも知れない。今年は義父の居ない餅つきになるが、喪中という事で済ませるか、続けるかは年末の声を聞いてから決めよう。