63. 番外編「韓国家族旅行」

12月20日から久し振りの海外家族旅行として、韓国は釜山に行った。

日本と一番近い距離であるお隣の韓国は昔は近くて遠い国と呼ばれていたが、現在は台湾やタイ、フィリピンなどの東南アジア各国と同様に、日本人旅行客が多く渡航している。私もタイや台湾は行ったことがあるが、韓国は初めてであった。事前の下調べもせずに、来年から二十歳になる息子と、家内、家内の母の4人でツアーを申し込んだ。ツアーといっても、恐らくこの年末の忙しい時に渡航する人はいないだろうと思っていたが、案の定、飛行機に乗る時から、滞在中も同行の日本人は少なかった。

午後便の大韓航空に乗って、一時間少しで現地に到着。北海道に行くより近い所に文化の違う外国へ行けることが不思議だった。

十数年前にロンドンに家族でアンの墓参に行った時はアンカレッジ経由で十六時間もかかったことを思えば信じられない距離である。

釜山空港に到着して、すぐに入国手続きをしたが、数名の日本人は真面目に並んでいるのにロシア人の団体が横から割り込んで来て、結局は最後のほうになってしまった。同胞は大きな声で怒っていても知らぬ顔だった。

空港ロビーで待っている今回、案内をしてくれるガイドさん(李さん)に長時間待たせたことをお詫びして、8人乗りのバンに4人がゆっくり乗り込み運転手(名無しのゴンさん)とともに市内散策をしながら、目的のリゾート地区、海雲台(ヘウンデ)グランドホテルに向かった。

毎度のことだが、ガイドさんと運転手の日当稼ぎのお付き合いで、何度か免税店に寄り、その度に土産を買うことに闘志を燃やしている義母は喜んで大量の物品を抱えて店を出て来た。

息子は「また、ポーターの役目か」とぼやいていたが、これまでもこのメンバーで行く時はいつも荷物運びは息子の役目となっている。

買い物が終わり、夕食は海鮮鍋を予約してあるということで、李さんお勧めの店に行った。私はどうも血圧が高いため、辛いものは苦手で、どんなものが出てくるのか心配であったが、何とかキムチも含めて、カニ、エビ、貝、の海関係は少しだけ食べることが出来た。肉の苦手な息子もこれは大丈夫だったようで、ほっとしていた。韓国は夜の屋台が有名で、食後、李さん達と別れてホテルに入った後、二時間ほど食べ歩きをした。リゾート地区なので市内と違って屋台は少ないと思っていたが、ホテルから歩いて5分もすればズラリと屋台は並んでいた。殆どが食べ物の屋台であったが、中には訳のわからない雑貨も置いていた。珍しいものとしてはヤツメウナギのぶつ切りや釣り人がエサとして使うユムシ(チロリ)や丸サナギも売っていた。

ゲソの天ぷらを買うと、息子に「おまけ」と言って、おばさんがサナギをくれたが、息子は釣りエサのことを良く知っているので、固まりながら無理やりおまけを食べていた。私から「どうや?味は」と聞くと、「お父さんはやめておいたほうが良い」と言ってた。

また、韓国では犬肉も普通に販売しており、見るからにそれらしいものがぶら下がっていたが、さすがにそこでは立ち止まらなかった。李さんに「韓国では野良犬がいないね?」と聞いたら「全部たべてしまうから」と答えてくれたのが、納得出来た光景であった。ペットらしい洋犬の姿はチラホラ見たが、食肉犬である大型犬や赤犬はまったくといって良いほど見かけなかった。食文化に関しては非難する人もいるが、私達日本人が忌み嫌われるタコなどの軟体動物を食べることで「野蛮人」と呼ばれることに憤慨する気持ちは理解出来るので、別に韓国の人々に対してそのような気持ちは沸いて来なかった。非難もしない代わりに食べもしないというのが本音である。

散策を終えて、ホテルに戻り、さすがに疲れていたのか、風呂に入った後、すぐに寝てしまったが、どうも環境が合わないのか、枕が高すぎたのか、何度も夜中に目覚めてしまい、翌日も移動車の中で船を漕いでしまった。

ホテルでのテレビ番組はハングル文字に加えて、NHK放送もしており、こちらは日本語だったので、安心して見れた。たまたま、翌日は懐かしのフォークソング特集をしていたので、一緒になって口ずさんでいた。

午前6時に目覚めたが、まだ外は真っ暗で、ようやく明るさが出て来たのは7時を回ってから。ホテルの前の広いビーチに一人で散歩に行った。

前日は夜に到着したので周囲の状況はわからなかったが、昔行ったことのあるオーストラリアのゴールドコースト海岸に似ていた。

朝陽を見ながら、感心したのは広大な浜に一片のゴミも落ちていないことである。日本の海岸を見慣れている者にとっては、驚くが、ゴミ箱も灰皿も設置されて居ない場所でこれほどの美しい海岸を見るのは久し振りだった。

本当に清々しい気持ちで、いつも持参している簡易灰皿にタバコの吸殻を入れて、ずっと海を眺めていたが、もうひとつ驚く光景に出会った。

この寒いのに泳いでいる人が数名居たことだ。こちらに来る前も日本では寒波のために大雪が降って寒いと思っていたが、負けず劣らずの寒さで道端にある水溜りや噴水は凍っているにも関わらずである。

北海道でも真冬に小樽の海岸ではウエットスーツを着てサーフィンをしている若者を見るが、この人達はサーフィンでなく、純粋に泳ぎだけであった。

見ているだけで寒くなり、ホテルの自室に戻ったが、息子はまだ、寝息を立てていた。砂粒の細かい浜で、恐らく夏に来ると私の大好きなキスは絶対釣れると確信したが、この日はその泳いでいる人以外に釣り人の姿は皆無だった。これだけの理由でまた、来たいと思うのだから、釣りに興味の無い人にとっては重症と思われるかも知れないが、得てして釣り好きとはそんなもので、道端にある溜まり水を見ても魚がいるのではないかと思ってしまうものなのである。

翌日はフリータイムであったが釜山の事情を何も知らない私達にとって、ガイドは欠かせない存在である。韓国名物の朝粥定食を食べに行こうと李さんの案内で海辺にあるレストランに連れて行ってもらった。

たかがお粥と言う無かれ!これがすこぶる旨いのである。具材は色々あるが一番高いという「アワビ粥」を注文してくれた。色は日本の茶粥に似ている。

アワビは細かく刻んであるので、歯ざわりに違和感はない。

そのまま、熱い粥を喉に流し込むと後で舌全体に旨みが伝わって来るのである。

高いといっても、韓国のレートは千ウオンで百円だから、大したことはない。

最初は「一万ウオン」と言われたらびっくりするが、日本円で千円だからもっと安いお粥なら三千ウオンから五千ウオンで食べることが出来る。

義母や家内はかなりの額をウオンに変えていたが、私と息子は一万円ずつを両替しただけで、それでも十万ウオンもあるので、財布は大量の札で膨らんだ。

そんなことから、韓国ではとても豊かな気分になれるのである。

その後、何度か免税店に寄り、大量のウオンを消費しながら釜山港の近くにある公園や、釣具屋さん、息子の希望である本屋さんなどに寄ったが、私の思っていたような韓国だけにしか置いていない釣具などは見つけることは出来なかった。さすがに釣具に関しては日本のほうがグレードが高いのか、シマノ、がまかつ、ダイワの有名メーカーの品は日本よりも高価だった。

国際市場という所では、石川県の輪島にある朝市のような雰囲気で声高のおばさん達が道路の中央に店を広げて、通行するお客さんに片っ端から呼び声をあげていた。どの店もキムチを置いてあり、良くこれだけの品が消費されるものだと感心した。それと、メガネ屋さんと薬屋さんもやたらと目立ち、歩いて数歩も行くと、必ず看板が目に飛び込んでくる。看板も色々なものがあり、面白いものとしては日本語で書いてあるものの、「る」が「ゐ」になっていたり、「大阪カラオケ」と意味のわからないものもあった。

一頃、日本でも有名になった革ジャンも多くの店で扱っているが、これは流行物なので、店員は暇を持て余していた。私は安くても自分のスタンスと合わない物は買わない主義なので、そういう店は全部素通りで、ひたすら屋台の不思議食べ物を買い漁った。中でも美味しかったのは一見、テンプラに似ているものの、中身はアンコだった不気味菓子だった。

不思議といえば店頭の水槽にやたらとボラが泳いでいたことだ。

我々釣り人にとっては外道と言われる魚なのだが、ガイドに言わせるととても美味しいという事だった。良く観察すると赤目と言われるまずい種類ではなく、本ボラだった。なるほど、これなら刺身にしても美味しいし和歌山の白浜で取れる本ボラの刺身は鯛と称して出している所もあると聞いていたので、人気商品になる値打ちは充分あると納得した。

軍兵士の眠っている公園ではドラム缶を改良した焼き芋屋さんがいたので、写真を撮らせてもらう代わりに芋を買ったが、これもホクホクして、とても美味しかった。演歌に出てくる釜山港の佇まいは思っていたより整然としており、大きな船舶が停泊していた。ここ釜山も建設ラッシュで、あちこちでビルの建設が行われていたが、釜山港を見下ろす高さ180メートルの展望タワーからはその様子が手に取るようにわかった。

ロッテ、現代というような財閥がどんどん市内に進出し、首都であるソウルに負けず劣らずの立派な建物を作っているといわれているが、まだ田舎の雰囲気を持っている釜山もあと何年かしたら、随分、様変わりするだろうなと思った。昼食は国際市場内にある魚市場で食事をした。大きな水槽に泳いでいる様々な魚を選び、その場で料理をして食べさせてくれる所だ。

日本語の達者な漁師さんに乗せられ、タラバガニの大きな奴と、イカソーメン、生ウニの海苔巻き、アワビなどを食べたが李さんも入れての5人で約一万円だった。

その漁師は水槽に泳いでいる30センチくらいの魚を指差して「クエ」と言ってたが、どう見てもクエではなくキジハタだった。まあ、どちらも高級魚であるが、クエの30センチなら食べる気がしない。余りにも魚のことに詳しいので驚いていたが、彼の話の中で面白い内容だったのは「我々は日本海で魚を取って売るが何処で取れても韓国産として商売するので、安く出来る」といった事だ。

昔は李ラインといって、日本漁船が韓国領海内のラインを超えて操業すれば直ちに拿捕されて国際的な問題に発展したのだが、韓国の漁師が日本海で堂々と操業しているとは驚いてしまった。

どこからどこまで韓国領海かわからないが、展望台から見たところ、良く釣りに行った対馬が見えており、釜山との距離はわずかしかないことが実感出来た。

戦時中はこの景色を見て、日本に帰りたいと思う同胞や、逆に対馬からは韓国に帰りたいと思う方がいたのではないかと、感傷的な気分になってしまった。

昼食後も、李さんの案内で各地を回って貰い、夕食は息子の苦手な肉料理であるレストランに入った。骨付きカルピを初めとし、ビビンバや名前の知らない料理が出てきたが、何とか野菜もたっぷりあったので、仕方なしに息子はベジタリアンになって我慢していた。

このレストランに行く前に市内唯一のカジノに寄って来た。韓国人は入場出来ないが、外国人は入れるということなので見学がてらに入って見ると、何と、日本でも有名な関取である土佐の海関が数人の弟子と一緒に遊んでいた。義母は千円分だけスロットルマシンで遊んだが結構、出たり入ったりで一時間ほど楽しんでいた。

そのレストランで夕食も終わろうかという時になって、また、土佐の海関一行と再会したのである。せっかくのチャンスなので一緒にカメラに収まってもらおうと、関取にお願いすると快く、返事をくれた。義母はとても喜んでいたが、それよりももっと喜んだのはガイドの李さんで、一生の思い出になると感謝してくれた。握手をして別れたが、あの大きな手の感触は今でも残っている。一日も早く、綱取りになって欲しいと願っている。

夕食を終えて、ホテルに帰ると前日から申し込んであった室内備え付けのパソコンが使えるようになっていた。有料であるが何度も係員が来て動作確認をしてくれたにも関わらず、インターネットは繋がらず、諦めていた。

息子は友人とアクセスするが、日本語対応で無いので、全部ハングル文字に変換されるため、ローマ字で打っていた。私も自分の釣りHPにアクセスしたが、全文ローマ字なので仲間は驚いたようだ。それでも返事を書いてくれていたので嬉しかった。さすがにもうひとつのHP「カタカナの墓碑」にはローマ字で打つのは遠慮したが、留守番をしてくれている常連さんの書き込みを見て安心した。

いつもだと12時を回らなければ眠くならないのに、どうしたことか、滞在中は夕方から眠くて仕方が無かった。風呂に浸かりながらも居眠りをしていた。

帰阪の準備をしたかったが、辛抱たまらないので、パソコンで遊んでいる息子に声をかけ、爆睡モードに入ってしまった。今回はたった二泊三日の海外旅行なのにこんなに濃い旅をしたのは初めてであった。

息子を混じえての旅は最後になるかもしれないし、また、一緒に行こうと言ってくれるかも知れない。いずれにしても、高齢の義母にとっては大好きな孫との旅行だったので嬉しかったのだろう。勉強は苦手でも障害者に優しい子供として育ち、文句を言いながらもこれまでの旅行にも付いて来た。

私としては、この旅行が息子と義母の最後の旅にならないよう、祈っている。

最後になるが、今回の旅で世話になったガイドの李さん(いーさんと呼ぶ)並びに運転手の権兵衛さんには本当に感謝している。一昨年の台湾で同行してくれたガイドには二度と会いたいと思わないが、次回、もし釜山の旅の機会があれば同じ人にお願いをしたいと思う旅でもあった。本当にありがとう。

※本HPには写真が掲載されていましたが、割愛させていただきます。