62. 「ギター」

ギターを弾き始めたのは随分前のことである。

中学を卒業して、製菓工場に勤めていた頃に、近所の仲間とバンドを組もうということになった。バンドといっても当時、流行り始めていたフォークソングやエレキバンドではなく、デキシーランドジャズであった。

数人の仲間がお好み焼き屋さんに集まり、誰がどんな楽器を担当しようかと話合っていた。もちろん、誰もそれまで楽器なんて触ったことも無く、一体、どれほどの値段がするものかも知れないのに、夢だけ追っているいい加減な連中であった。たまたま、その店に来ていた一人の客が、そんな我々の話の中に割り込んで来て「今時めずらしい連中だね、ジャズをやりたいとは、どうだね、一度僕のスタジオに来ないか?」と聞いて来た。

ヒゲもじゃで一見、恐持てのする顔の人であったが、恐々、その人のいうスタジオなるものに行って見ることにした。中に入って見ると、ピアノからドラム、トランペット、トロンボーン、クラリネット、ギター、ウッドベース、テナーサックス、アルトサックス、バンジョーと、あらゆる楽器が置いてあった。

最初に自己紹介があって、何でもその人は元プロのミュージシャンであることが判った。お名前は松本さんといって、盲目のトランペッターをリーダーとする「南里文雄とホットペッパーズ」のトロンボーン奏者であり、ジャズ界では有名な方だった。現役を引退し、好きな楽器に囲まれて余生を過ごしている方で、そんな凄い人と出会ったのが私のギター人生の始まりだった。

「好きな楽器を触っても良いよ」と言ってくれたので、仲間がそれぞれの楽器を手にとって見た。触って音が出るのはピアノとギターくらいで、金管楽器、木管楽器はうんともすんとも言わない。手ほどきを受けて音が鳴った時は仲間は感動していた。順番に「君は何をしたい?」と聞かれたので、一番簡単そうなギターを手にとって、「僕はこれです」と言ったら、「ちょっと手を見せて見なさい」と言われたので、その人に差し出すと「ああ、この指ではギターは無理だね」と返事が返ってきた。何でもピアノとギターは指の長さで決まって来るものらしい。私は小柄だし、それに相応して手も小さい。そこらで演奏している素人バンドのギター奏者くらいなら誰でも出来るが、ジャズギターを志すなら諦めたほうが良いとも言われた。ハーモニカなら、三年間も吹いており、どんな曲でも演奏出来たが、ジャズでハーモニカなどはないし、頑張りますから、お願いしますと言って、強引に頼み込んだ。それからは、毎週の休日に仲間とスタジオを訪れ、少しずつ憶えて行った。たまたま、職場のゴミ置き場に壊れたギターが落ちていたので、それを家に持ち帰って毎日、練習したのが良かったのか、コードも憶え、チューニングも自分で出来るようになった。仲間もそれぞれ、猛練習しているのか、会うたびに上達しているのがわかる。フルバンドとは行かないものの、一応、ドラム一人、トランペット二人、クラリネット一人、ウッドベース一人、トロンボーン一人、アルトサックス一人、そして私のギターで何とか様になるバンドが出来た。

それぞれの担当楽器も松本さんの計らいで、プロの持ち物に比べると安物であったが三年ローンで各自が購入した。私はピックギターという、当時の給料の一年分にも相当するギターを手に入れて、毎日磨いていたのを思い出す。

デキシーランドジャズのギターはひたすら、カッティングといって、移動コードを叩きつけることに徹し、決して目立ってはならない存在であった。

ベースもそうであるが、人よりも大きいウッドベースはそれだけで存在感がある。

隅の方に立ってメインのトランペットやトロンボーンに合わせるのだが、曲の進行によっては合奏がうまくいくと、とても嬉しい。

ただ、辛い時もあった。浜寺公園という野外練習場で真冬に演奏を行った時である。

あまりの寒さで指が切れてしまった。演奏を中止した途端に松本さんに怒鳴られてしまった。「やる気が無いなら帰れ!」泣きそうになったが、血だらけの指で演奏を再開した。練習が終わってからドラム担当の三歳上の兄から、「良くやった」と言われた時は本当に泣いてしまった。その兄の指もベース担当者の指も血だらけであった。一年も経つと、数曲をこなすことも出来るようになり、徐々に天狗になっていくのがわかる。ジャズ喫茶に行って、プロのバンドの休憩時間に「一曲やらせて下さい」と頼み込んだり、地区の催しに呼ばれて演奏することも多くなった。

松本さんはそれを良しとはせず、許可無しに演奏会を開いたりしたら、こっぴどく怒られた。一度、クリスマスにチケットを販売し、市民会館のホールでダンスパーティを開いたことがあった。レパートリーはそれほど多くないので、「聖者の行進」を一時間以上、演奏したこともある。それを誰かに聞いた松本さんから「君達の勝手な行動にはもう、付き合えん、好きなようにしたら良い」と言われてしまった。ただ、その後個別に呼び出しがあったようで「プロとして生きていくことの出来るのはベース担当者と佐藤君の兄さんだけだ、あとは話にならん」とも言われたそうだ。結局はその後メンバーがバラバラになってしまったが、ベース担当者は本当にプロとなり、兄は大手の会社のバンドマスターとして、生き残った。私はギターだけのバンドを作ろうと、最初はフォークソンググループを立ち上げた。フォーク全盛時代に突入し、今の駅前で行われているストリートミュージシャンのようなものもあったが、私達はアルバイトを兼ねて、ヘルスセンターや喫茶店などの施設で演奏を行っていた。

次にビートルズやベンチャーズの時代に突入してからはエレキギターにはまってしまって、何度かグループを結成し、流行のダンスに合わせて演奏活動をした。

ジャズギターからすればフォークやエレキは簡単なもので、松本さんが言ってたのは「ある程度の曲なら誰でも弾けるようになるが、ジャズは君には無理だ」ということが後ろめたいながら、理解出来た。

懐かしの思い出としてはこんなこともあった。

まだ、ジャズバンドを解散していなかった頃、松本さんのお声掛かりで、当時、人気絶頂中だったハナ肇率いるクレージーキャッツの面々が市民会館で演奏をしたことがある。それまでお笑い芸人だと思っていたが、それぞれがジャズでは日本の五指に入る人ばかりだと聞いてびっくりした。ジャズ誌「スイングジャーナル」にいつもギタリストやトロンボーン奏者の人気投票があり、トップ奏者一覧の上位には植木等や谷啓が必ず並んでいた。

この時も、彼らの演奏中に私は照明係だったので、素晴らしい演奏に興奮して、カラーライトを回し過ぎて楽譜が見えなかったとあとで、松本さんに叱られたが、さすがにジャズのプロで、楽譜は無視して即興で演奏していたらしい。

松本さんと谷啓のトロンボーン合奏は綺麗なハーモニーを奏でており、戦後の米軍キャンプ巡りでトランクに入らないくらいギャラを稼いだという話も頷けた。

今も時々、地区福祉活動などで、ギターを抱えて弾き語りなどをしているが、このようなバックグランドがあったからこそ、皆さんに喜んでもらえる立場になったのだと感謝している。松本さんという一人の存在と出合ったことで、何事にも自信の無い生活をしていた自分にギターというジャンルを教えて頂き、光明を得た。それは現在の仕事にもつながっている。

もう少しでクリスマスを迎えるが、今年もまた、どこかで下手の横好きであるギター演奏を楽しみにしてくれる人がいる。いつもこのHPを訪問してくれる人にも機会があれば是非、披露して見たいとも思っている。

最後にメリークリスマス&ハッピーニューイヤーと書いて、年内最後の稿を終えよう。