61. 「歯無しの話」

以前、患者さんの虫歯(カリエス)の電子顕微鏡写真とX線分析をしたことがある。洞穴のようになっている部分と正常な部分の境界線を撮ったのだが、歯の表層部にあるエナメル質と象牙質は完全に溶けていた。構成元素である燐酸カルシウムの値もバラつきがあり、正常な部分との違いが判った。人は健康な歯を持っている時は空気みたいな存在で、その有り難さには気がつかないが、無くなって初めて、その重要性に気付く。虫歯になってその激痛で夜も寝れない時は歯磨きを怠ったことに反省するが、痛みが消えればまた、元の生活に戻ってしまう。生命を司る食物の入り口であるにも関わらず、意外と大事にされていない器官のひとつでもある。

これは医学における疾患治療と大きく異なる点だ。

何故、医学部以外に歯学部が別に存在しているのか、私も最初は判らなかった。今でも明確な理由は判らないまま、その学部で仕事をしている。

歯学部があるのなら、耳鼻学部や眼学部もあって良いのではないかとも思っていた。

例えば、大学の歯学部には医学部と同じくらいの講座がある。

解剖学、病理学、生理学、生化学、薬理学、理工学、細菌学などの基礎講座に加えて、外科学、予防歯科、保存学、補綴学、矯正学、放射線、麻酔、障害者治療学、顎口腔機能学、総合診療部、検査部などの臨床講座がある。

一般の人にとっては歯学部というのは虫歯の研究だけをしているように思われがちだが、決してそうではなく、口腔内の癌や交通事故災害で顎形成手術を行ったりもしているのである。また、先天性奇形の復顔手術も行っているし、基礎的研究でも多くの成果を残している。医学部から歯学部に異動して見て、初めてこれらの事実を知ったのだが、昔は医者よりも歯医者になるほうが難しいと言われた時代があったそうだ。そういった歯医者全盛の時代も過ぎ去って、今は医学部の中に「歯学科」としてひとつの講座のような存在にしたほうが良いという意見も出たことがあった。

効率的な運用と人減らしを考えるなら歯学研究者をそちらに吸収してしまおうという乱暴な意見が噂として飛び、関係者は少なからずも動揺を覚えていただろう。来年からは国立大学の法人化を迎え、益々弱い立場の学部は生き残りの為の知恵を絞ろうと躍起になっているのが現状だ。

すぐに答えの出ない基礎研究よりもインパクトのある臨床研究のほうが予算を引き出しやすいので、歯学研究者にとっては苦しい世の中になるだろう。

医学部でも基礎研究者は同様の不安を持っているだろうが、「命」に直接関係のある学部だけに、強みはある。例えば痛みの研究や虫歯原因の研究で神経回路がはっきり判っていたり、どのような細菌が悪さをするのかが判っていた場合は次の段階は治療か予防しかないのである。確実な痛みの制御が出来る薬の開発や、口腔内の細菌繁殖の防御法が確立されれば、それ以上の研究の必要性を模索するためには大変な努力が必要となる。

いくら口腔内限定の癌細胞であったとしても、癌には変わりはないのだからそれを歯科医が研究したり、切除手術しなくとも、医学研究者が行っても何も問題はないだろう。

歯医者になりさえすれば蔵のひとつやふたつも簡単に建った時代と違って、今は本当に歯学研究者にとっては受難の時代かも知れない。

歯無しの人にとっては誰が治療してくれても完全に痛みを排除し、例え人工の歯でも死ぬまで保ってくれ、受益者負担の安い医者が育ってくれるのが一番の望みだと思う。

こういう患者さんの為に、今一度、歯科研究者は頑張って信頼を取り戻し、医学研究者にも負けない画期的な研究をして、治療法を確立して欲しいと願っている。