57. ファミリー

「ファミリー」

家族=ファミリーっていい言葉ですね?

昭和46年から、動物実験室の管理をしていた時、最初は一人ぽっちだったのが、徐々に仲間が増えていった。私と同じ経緯で入ったアルバイト学生。昼間は実験助手として働き、夜間は学校に通う毎日。それぞれ、研究者のポケットマネーで雇われているが、彼らの仕事場は動物実験室。私が実験助手の頃は医局の雑用をする女性もいなかった時代だ。それが、研究室の試験管洗いから、教授の秘書まで、多くの女性が進出するようになった。さすがに、動物実験の手伝いや世話をする人は男性だけに限られたが、私の存在の便利性が認知されたのか、各講座でもアルバイト学生を雇うようになって来た。それらのバイト諸君が「佐藤ファミリー」として、管理室にたむろするようになり、人生相談から再就職相談、果ては媒酌人まで引き受けることになったケースもある。今でも一人一人の顔を思い浮かべることが出来る。佐藤さんと同じ道を歩みたいと、実験動物の人材派遣業に就職し、ある大学医学部の施設や製薬会社の施設で頑張っている後輩もいるし、JRの運転手、土建屋さんの社長になった者もいる。一人の後輩は医学部の施設で現場責任者として、私の夢を繋いでくれているし、病院の職員として、手術に必要な器材を管理している者もいる。行方不明になった者もいるが、いずれも私にとっては可愛い後輩であった。その雰囲気に引きつられて、多くの研究者も管理室に入り浸り、昼食を一緒に食べたり、夜は病院の近くにある飲み屋で騒いだことも多かった。その研究者も今は教授になったり、大病院の病院長や部長になって異動してしまった人もいる。一面、暗い雰囲気と思われている、動物実験室のイメージから程遠いものであった。今でもその頃の研究者と会えば、「佐藤ファミリーの頃はよかったなあ」と言ってくれる人もおり、私にしても一番、充実していた時代ではなかったかなと思うのである。中でも、鮮明に憶えているのは、待望の息子が十二年目で生まれた時のことである。朝から破水した妻をタクシーに乗せて勤務する阪大病院に連れて来て、すぐに分娩室に収容されたのはいいが、一向に連絡が入らなかった。分娩育児部の部長に電話すると「初産だから、時間がかかると思います。生まれたらすぐに佐藤さんに連絡するから落ち着いて待っていて下さい」と言われた。それでも、気になるものだから、一時間おきに電話を入れた。相手は笑って答えていたが、恐らく、しつこい人と思っただろう。一日の仕事が終わり、夕方になっても連絡が入らなかったので、腰を据えて管理室で待機することにした。ファミリーの後輩も、「佐藤さん一人だと寂しいでしょうから私達も残ってます」と言って、慰めてくれた。実験後の研究者も三々五々、帰り支度をする者もいて、彼らにも「もういいよ、遅くなるから帰って!」と言ったのだが、なかなか腰を上げようとはしない。午後9時頃になって、ようやく彼らも諦めたのか、全員が「お先に!」と言って立ち上がって出て行った。そして、その一時間後、分娩室から電話が入った。「おめでとう御座います。無事に男の子を出産されました!」本当に舞い上がってしまった。もう、我々夫婦には子供に恵まれることはないだろうと思っていただけに、喜びはひとしおだった。何度も何度も電話に向かって御礼を言った。と、その時、急に管理室の扉が開いたかと思うと、「佐藤さん、おめでとう!」と歓声が上がったのである。何事かと思ったら、後輩達が花束を持って立っていた。その後ろには、とっくに帰ったと思っていた研究者も並んでいた。口々に「おめでとう!」「良かったね」という言葉の嵐に私は胸が詰まってしまった。後輩はともかく、いつも私に怒られていた研究者までが心から祝ってくれたことが、感激という言葉では表せない気持ちだった。どのように感謝の言葉を述べたら良いか、ただ、ひたすら、涙顔で頭を下げるしか出来なかった。現在は歯学部でたった一人の管理室に座って、仕事をしているが、あの頃を思い出すたびに、古き良き時代が過ぎ去っていく流れを味わっている。