著者名:北 徳(川崎医科大学医用生物センター)
6、飼育ケージ基準とは?
「動物実験に関する基準」は、と考えると、重要なものとして飼育ケージの大きさが思い浮かびます。動物の飼育ケージの大きさについての考え方は、その動物の飼育目的によって変化します。例えば、畜産動物は経済家畜ですから生産効率が重視されるでしょう。また、コンパニオン動物となると飼育者の動物に対する考え方、生活様式や経済力によって決まってくるでしょう。実験動物の場合は、均質性や管理効率が重視される。つまりその動物を飼育する目的によって変わるわけですが、そこで決まる飼育形態はいわば人間側の都合によるものであって、そこで飼育される動物にとってそれが快適であるかどうかは別問題です。ともすれば目的を追求するあまりに、動物にとって居心地の悪い環境になってしまうこともある。そこで、それぞれの目的に応じて飼育形態や環境を決めるのはいいが、動物自身にとって好ましい環境を最低限保障すべきだというのが、動物福祉の考え方である、という言い方もできるでしょう。
そこで、最低基準や推奨基準を設定しようということになるわけですが、実験動物飼育ケージの大きさについては、北米の基準、EUの基準などいくつか国際的なものがあります。そういう中で、日本では数年前に「4BSケージサイズ」という概念が提案されました。これは、動物の休息姿勢の水平面投影面積を1BS(ベッド スペース)とし、それを4倍した広さを基準にしようという考え方です。これが検討されたきっかけは、我が国でケージサイズ基準が議論され始めた当時、欧米の基準は感覚的で科学的根拠が乏しい、科学的根拠に乏しい基準を丸飲みするわけにはいかない、という意見が多く出されたからのようです。
つまり、感覚的に決められた基準は不安定に変化するし、一般社会に向けて説得力がない、だから科学的根拠のある確かな基準を作ろう、ということであったようです。基準は科学的根拠が重要だ、ということですが、皆さんはどう思われますか?おそらく「その通りだ」と考えておられますよね。でも私はその考え方にいささか疑問を感じています。
とは言っても科学的根拠がなくていいと考えているわけではないのですが、ではこの「4BSケージサイズ」というのは科学的なものなのでしょうか?結論を先に申しますと、私は非科学的な概念であると思っております。なぜ非科学的と考えるか少し説明します。
まず、なぜ4BSか、という発想なのですが、それについて研究成果報告書の中で基本理念が説明されています。それによると、飼育ケージの広さは
1. 摂餌・摂水が容易である
2. 排便・排泄が容易にでき、これによる汚染が少ない
3. 必要最低限の自由行動・探索行動が保証される
4. 安楽姿勢で休息・睡眠がとれるものであることが必要である
5. これら1~4の基本が充たされれば室内で飼育された動物の行動と発育は おおむね正常であると期待される
とされています。そして1~4それぞれに1BSを与えるというのですが、皆さんはこの理念から4BSへ至る論理が科学的だと思われますでしょうか、いかがでしょう?まず、1~4の条件が充たされると室内で飼育された動物の行動と発育はおおむね正常であると期待されるというこの期待は大まかな理念的なものとして受け入れるとして、では、1~4の行動のために1BSを与えて4BSを導き出す根拠はどこにあるのでしょうか?これが基本の部分での疑問です。1~4の基本を、それぞれに1BSを与えることでなぜ満足させられるのか、その科学的根拠は見当たりません。つまり、基本的理念から4BSへ辿り着く道筋に科学的根拠があるようには思われないのです。でもまあ、この点には目をつむりましょう。
その上で、4BSの科学的問題点を二つ挙げておきましょう。
一つ目は3の自由行動・探索行動についてですが、4BSの考え方では、それに大方の動物種に体重別に割り出した1BSを与えるとしていますけれども、ここに大きな問題があります。各動物種の個体に最低限度の自由行動・探索行動のためのスペースを保証するとして1BSを与えるわけですが、マウスにも1BS、イヌにも1BS、これが果たして科学的なのでしょうか?
動物学の分野では「動物の行動圏の広さは体重に比例する」という法則があると言われています。とすると各動物種の個体にそれぞれの休息姿勢の水平面投影面積から得た1BSを自由行動スペースとして与えた場合、動物の身になって考えると、例えばマウスとイヌとでは拘束感がまったく違うことになるでしょう。体重20gのマウスと20Kgのイヌとでは、行動圏の広さは1000倍違う。ところが4BS方式では、20gのマウスの1BSは25㎠、20Kgのイヌの1BSは0.5㎡(5000㎠)とされています。つまり、20Kgのイヌに20gのマウスの200倍の面積を与えている。ここを考えていて算数がよくわからなくなってしまいました。
間違っていなければいいのですが……もし、20gのマウスに25㎠を与えるとすると「動物の行動圏の広さは体重に比例する」という法則を適用して考えた場合、20Kgのイヌには25000㎠を与えなければ同じ条件になりません。
つまり、最低限度の自由行動・探索行動のためのスペースを保証するために、どの動物種に対しても1BSを与えるという発想はどうも科学的ではありません。二つ目として2の排便・排泄について考えてみます。
ケージ内で飼育される実験動物は、そのケージの中でウンコをしなければなりません。そのために、4BSではウンコするためのスペースとして1BSを与えると言います。しかし、動物にとってウンコするためのスペースが1BSあるということがどれほどの意味を持っているでしょうか?皆さん、どう思われますか?
ウンコする場所が1BS、休息する場所が1BS、食べる場所が……ということは、休息していたり食べているとき、隣の1BS区画には自分のウンコがあるということです。もし動物がもう少しゆとりのあるスペースに住んでいたとしたらどうでしょう、その動物は自分のウンコのすぐ側に寝るでしょうか?あんまりそのような姿は想像できないですよね。おそらく、行動できる範囲の端の方でウンコする。この点を私が疑問に感じたのは、ケージ内飼育しているイヌの特徴的な行動に気づいたからです。
私の施設では、保健所由来の雑犬が使用されることが多かったのですが、そこに
ある時、実験用として育成されたビーグル犬が入ってきました。
それまでずっと雑犬ばかり扱っていましたから、実験用ビーグルはきっと穏やかで扱いやすいだろうと大いに期待しました。ところが、ビーグル達は、ケージの中でグルグル走り回って自分のウンコを踏み散らかし、こちらの顔面にポンポンとウンコの固まりが飛んでくる。そして自分のウンコの上に寝る。これには驚きました。それからちょっと注意してイヌとウンコを観察しました。それでわかったのですが、保健所由来のイヌはほとんど自分のウンコは踏まないし、もしはずみで踏んでしまったときは、しまった、という顔をします。ところが実験用ビーグルは自分のウンコを踏むことも、そのウンコの上に寝ることも平気です。それは一体なぜなのか?
結論を申しますと、実験用ビーグルは、育成の過程でウンコをする行動が正常に育ち得るだけの十分なスペースを与えられなかったからだと思われます。このような、イヌのウンコにまつわる行動から考えると、「自分のウンコを踏まない習性がまっとうに育つ広さの育成環境、踏まなくて済む飼育環境を与えましょう」と言う方がよほど科学的であると思うわけです。これはほかの動物種でも同じではないでしょうか。
この4BSの例から私たちが学ぶことができるのは、何事にも科学的であることを重視して、常に科学的であろうとしても、恐ろしく非科学的な経路を辿って恐ろしく非科学的な結論に辿り着くことがあるということです。
「科学的」ということを大上段に振りかぶってみても、振りかぶった本人が実はちっとも「科学的」でない場合もいっぱいあるということです。
また、真に「科学的」であり得たとしても、その科学的に妥当とされた数値は、福祉を語るとき、「科学的」であることに固着している人が期待するほどには社会的に有効ではありません。どういうことか、ちょっとケージの広さについて説明します。実験動物のケージの広さを考えるとき、いくつかの視点があります。科学的視点、福祉的視点、経済的視点などです。つまり、この問題は科学的視点から考えさえすれば事足りるわけではありません。また、科学的視点が導き出す数値もそれが一体何を意味する数値なのか実ははっきりしているわけではありません。先ほど説明した4BSの場合、研究成果報告書では「欧米ガイドラインにいうミニマムレベルとはやや趣を異にしている」とされていますから、最低基準ではない。
では一体「何なのか?」よくわかりません。単に各動物種について、それぞれの休息姿勢の水平面投影面積を4倍した数値表が示されたに過ぎない。何を意味するのかよくわかりません。というわけで、科学的だといいながら実は何を意味するかよくわからない数値が導かれる場合もあるのですが、ここでは仮に科学的アプローチで科学的最低基準が得られるとして説明します。
実験動物にとっての住環境の快適度について科学的立場、福祉的立場、経済的立場から最低限度なり最高限度を設定するとします。そうした場合、科学的に割り出された最低限度はおそらく福祉的立場から割り出された最低限度よりもかなり低いものになるでしょう。また、経済的立場は科学的最低限度に対しても福祉的最低限度に対しても、「そんなに高くはできない」と割引を求めることになるでしょう。何事に依らず、科学、福祉、経済というのは、こういう関係で綱引きをしている。住環境の快適度の要素として、動物にとっての生活空間の広さは極めて重要なものです。動物にとって生活空間が大きくなれば快適度も増す。
しかしある広さを超えた部分は動物にとって意味のない空間となる。
社会の流れは動物にとっての快適度を増大させる方向に向いている。
ここで皆さんに考えていただきたいことが二つあります。
一つは、私たちのよりどころとなるケージの広さについての基準はどのようにして決定すべきでしょうか?二つ目は、その基準はこの図の中のどの位置に落ち着くのでしょうか?この質問を皆さんに投げかけるために、ケージの広さの話を長々として参りました。基準というものが私たちにとって、社会にとって一体何であるのかを考えていただきたいと思うのです。
7、動物実験によって生じる痛みとは?
次は、動物実験倫理・実験動物福祉で重要な「痛み」について少し考えてみましょう。動物実験に際しては適切な麻酔を施すべき、ということが現在ではすでに私たちの間で常識となっています。つまり、動物の痛みを緩和し除去するということです。
では、動物は一体どういう痛みをどんな風に感じているのでしょうか?
実はこれはよくわかっていません。というのは、狭い意味での科学的態度、科学的手法ではどうもうまい具合に測定できないからなんですね。
人の場合は、言葉によるコミュニケーションがとれるから、その人がどの程度の痛みを感じているか言葉で表現してもらって、痛みの度合いを評価して疼痛緩和や除去の手立てを工夫できるのですが、動物ではそれができない。
神経生理現象としての痛みの発生メカニズム、それの緩和メカニズムはかなりのところまで科学的に解明されている。けれども、人の場合でも、その人が現実に感じている痛みの程度は、となると、何らかの測定器を使って科学的に直接測定するということはできません。ある人が感じている痛みがどの程度のものであるかの判定は、その人自身が感じている度合いを表明してもらうことでしかできません。手術などで完全に眠らせてしまう場合は確実な管理ができるようになっていますが、覚醒した状態での疼痛管理は実は人間の場合でもとても難しいとされています。
鎮痛薬を規定通り投与すれば済むというものではないということです。
痛みとは何か?人の場合でも一言で説明できるものではありません。痛みというのは様々な要素からなっている実は大変に複雑な複合系なのです。
人の場合、痛みは
1. 身体的痛み
2. 精神的痛み
3. 社会的痛み
4. 霊的(スピリチュアル)痛み
これらの複合であると定義されています。一つ一つがどういう意味であるかここでは説明しませんが、これは現在の人の痛みの定義です。
これらを総合して「全人的痛み(Total Pain)」と呼んでいます。
もし、人について痛みの緩和や除去を考えるならば、これらの全体を管理しなければならないのです。また、「痛みは常に主観的である」という定義もあります。これは国際疼痛学会の定義の一部ですが、人の場合でも痛みというのはとらえ方がとても難しい。ですから、がん末期にある患者さんの疼痛緩和について、ホスピスの医師やスタッフは、患者さん一人一人にあわせていわばオーダーメードの様々な工夫や努力をしているわけです。
では、私たちは、動物の痛みを考えるときどの痛みを思い描いているのでしょうか?たぶん、Total Painのうちの1の身体的痛みだと思いますが、いかがでしょうか?ちょっと待て、痛みについては人と動物を同列において考えるのは乱暴すぎるぞ、とお考えの方もあるかも知れませんが、でも動物がどんな痛みをどんな風に感じているか正直言ってわからないですよね。だから、この痛みについては、人間での研究成果を動物に外挿して考えるしかありません。
動物の苦痛について考える場合には人間での研究成果を動物に外挿する……、この考え方はどうでしょうか?違和感を感じておられるでしょうか?実はこの考えは「動物の苦痛を考える場合に、人の知識がきわめて有用であることを意味しており、倫理的な動物実験実施のための技術的検討にあたって、人からの外挿をより積極的に進める方向が考えられる」と、この日本ですでに17年前(1985年)に麻酔医によって表明されています。
また、動物の苦痛について、薬理学的解釈を論じる中で「動物の精神的な苦痛の排除にも配慮したいものである」と述べている研究者もあります。
それは日本実験動物学会が1985年に開催したシンポジウム「実験動物の苦痛」でのことですが、動物の場合でも痛み・苦痛の緩和・除去のためには総合的なアプローチを要することを意味する言葉です。単に規定量の鎮痛薬を投与しさえすれば良い、というものではない。
では「どうせえ」というのか?ということになるのですが、私もどうしたらいいのかよくわかりません。ただ一般論として、人の場合から外挿して考えると、手厚く世話をすることが重要だとだけはいえると考えます。
動物の日常の生活環境が快適で、世話をする人間との関係が穏やかで安定していれば、動物は精神的に穏やかでいることができる。そういう環境を動物に与え、安定した人と動物の関係を保つこと、このことも実験動物の痛みを緩和する上で極めて重要な要素であるでしょう。この点も、すでに17年前のシンポジウムで言及されています。「英国にあるアニマルナーシングという考え方を導入して動物看護の改善に努めるべきだ」とその研究者は発言しています。「動物看護」という視点、私はとても重要だと感じています。
次に、動物実験によって引き起こされるもう一つの痛みについてお話しします。痛みには人の場合、4つの痛みがあると説明しました。動物の場合、「霊的痛み」があるかどうかはわかりませんけれども、大体人と同じように考える方が良いだろうということには、賛成していただけると思います。
ところが、実は動物実験によって引き起こされる痛みはもう一つあります。
それはどんな痛みだと思われるでしょうか?実験動物福祉を考えるとき、この痛みはとても重要です。その痛みの事を忘れたら、実験動物の福祉を語ることはできないでしょう。それは、「人の心に生じる痛み」です。
もう少し大きく言うと「この社会に生じる痛み」です。
つまり、まず第一に、実験をしている実験者、その動物を世話している実験動物技術者の心に生じる痛みです。今日、実験動物の死体を目にし手にしたとき、皆さん自身の心は何を感じているか、おたずねしましたが、痛みを感じる人には痛みがある。痛みなんか感じないよ、という方もあると思いますが、それはちょっと人として危ない。ちょっと気をつけた方がいいでしょう。
そしてもう一つは、社会の人々が感じる心の痛み。実験をやっていてご自分の心に痛みを感じないという科学的精神の固まりのような人には理解できないかも知れませんが、この社会の構成員である一般の人々の中には実験動物の運命を思って心を痛めている人々がたくさんいます。その人達の心の痛みは、私たちが実験動物の福祉を考える際の大変重要な要素となります。
ここのところで、先ほどお話ししました条件付き賛成とか、条件付き反対と言うときの条件を思い浮かべて下さい。おそらく、人々の心の痛みのありようが、その人々それぞれの条件に収斂してゆくように思われます。
私がまだ若かった頃、同年代の実験者で動物慰霊祭には出席しない、と明言する実験者がいました。その人は「実験動物慰霊祭なんかに出席するくらいなら動物実験なんかしない」と断言するのです。ヘェーそうかいな、科学的精神の固まりなんだな、と思っていたら、その人が結婚して奥さんが妊娠したら途端に動物慰霊祭に出席するようになった。本人はどう考えたのかわかりませんが、心の痛みを感じるようになったのだろう、と私は考えています。
人間には、動物の状態を見たり想像することによって、自分の心に痛みを感じるという現象があります。それに対しても私たちは対応しなければならないのですが、このこともすでに17年前のシンポジウムの折に明確に言及されています。
「獣医師は、診察の過程で動物自身の苦痛排除に努めるばかりでなく、飼い主の苦痛軽減を配慮しなければならない」とその研究者は言っているのですが、これを動物実験に当てはめると「実験者は一般社会の人々の苦痛軽減を配慮しなければならない」ということになると私は考えています。
皆さんはどうお考えでしょうか?
動物実験が引き起こす痛み・苦痛を総合的にどのように扱うべきか……ちょっと考えただけでもとてつもなく難しい。
その難しい状況を考えると、私は今の時点で社会に向けて「動物実験は実験動物の苦痛に十分に配慮して行われています」とはどうも断言できない。
そういう状況の現場に私は身を置いています。皆さんはいかがでしょうか?
8、おわりに
実験動物福祉については、私自身これまでにいろいろと現場にいて考えてきました。今も考え続けてはいますが、私の中では何もスッキリと解決したものはありません。ずっと迷い続けています。今日は「なぜ実験動物福祉に配慮しなければならないのか」原理的な理由は私にはわからないという地点から、私自身の迷い道の幾つかを辿ってお話しさせていただきました。
「なぜなのか?」「どのようになのか?」を考えることはとても難しいけれども、「社会的信頼・信用を築き維持するため」という実務的動機付けをすると社会的意味がよく理解できるのではないか、ということをまずお話ししました。
そして、「社会的信頼・信用を築き維持するため」には、自分を社会に向けて開放し自分と社会の間で交流できる姿勢を保つ必要があるだろうと申し上げました。つまり、「社会的信頼・信用」は、自分と社会との間の交流の中から生まれてくる。そして社会との間で交流するには、まず自分を知らなくてはならない、そのためには自分の社会的位置、自分が何者であるか、自分は何を感じているのかなど、自分自身を真面目に見つめる必要があるだろう、とお話ししました。
そして、具体的な話題としてケージの広さやイヌのウンコ、痛みを取り上げて、最終的に私自身は、私のいる現場の状況について一般社会に向けて「動物実験は実験動物の苦痛に十分配慮して行われています」とはとても断言できないと申し上げました。結局のところ私は、この問題について自信をもって何事をも断言することができません。フラフラと迷っているだけです。
漱石の草枕の心境です。「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい。」正に実感です。
このような私の心模様についてあるJAVA会員から「あなたは、自分では何も意見を持たないで社会の流れに漂っているだけなのか」とお叱りを受けたことがあります。また、実験動物研究者の側からは「あいつの言うことは科学的でない」という評価をいただいているようです。
そんなわけで、私は科学的でなくてフニャフニャした人間に見えるんだなあ、とつくづく感じているのですが、今日はちょっと「科学的でなくて何が悪い!」「フニャフニャしていて何が悪い!」と少々、居直ってお話しさせていただきました。ここまでお話しする中で、実験動物福祉問題は「科学的姿勢」に固着していては考えることができないということを強調してきました。
また、科学的だと思い込んで行う実験や研究が実は科学的でない場合も間々ある、ということもお話ししました。この世界に入って30年ほどになる今、私はそのように感じています。科学的でなくてフニャフニャしている私が、迷いに迷って現時点で辿り着いた結論を申し上げます。
実験動物福祉に限らず、福祉基準というものは、元来、科学的に形成されるものではない、それは感覚的なもの、その時点での社会において大方の理解・賛同が得られる位置に設定される軟らかいものである。これが私の結論です。
ただ、「科学的」ということはどういう意味か?考え方を変えるべきだという意見もあります。例えば五木寛之は「他力」という本の中でこう言っています。「いちばん科学的である姿勢とは、科学で分析できないことが世の中にはたくさんあることを認める姿勢、ということでしょう」と。こういう意味においてであるならば、「科学的」に福祉を語ることができるかも知れません。しかし現在の実情から言えば「科学的」であることに固着していては語ることができないと言わざるを得ません。福祉というのは、一般社会の人々の心が考えあるいは感じるところが原点であると思うからです。科学というのは、われわれがある物事について感じ、考え、判断するときの補助材料を提供するものです。科学を前面に押し立てて大上段に振りかぶって福祉を考えたりその基準を設定することは不可能です。要するに、漱石がやはり草枕の中で言っているように、「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらする唯の人である。」ということです。ある分野における福祉基準というのは、その分野の内部にいる人々と、外部にいる人々との交流の中から生まれるものと思います。それは福祉基準の大前提に「倫理」があるからです。「倫理」というのは、「社会的視点の内面化」、つまり「自己の社会化」であるわけで、他者との交流なくしては自分自身の行動規範として成立しません。したがって、私たちは外部の人々と真剣に交流しなければなりません。
動物実験反対者とも、ということです。
* 北氏の講演内容は豊富な図説で行われておりました。ご本人には申し訳ありませんがエッセイの構成上、「図」は省略させて頂きましたこと、お詫び致します。また、本文は日本実験動物技術者協会雑誌に既報したものをご本人と協会の承諾を得て、転載したことを申し添えます。 管理者(注)
関西支部注)「管理者」とは佐藤良夫氏のこと。なお、関西支部としても北氏の承諾を得て、本文を転載している。