52. 「ジレンマ」

 ある動物愛護運動をしている方からメールを頂戴した。

「私はカタカナの墓碑のことを一人でも多くの人に見て貰うため、あるイベント会場で佐藤さんを呼んで講演して貰ったり、アンのパネルなどをお借りして会場にセッティングしたいと仲間にお願いしたのですが、もともと、この会は動物実験反対が主旨なのに、そんな方を呼んだりパネルなどを展示すると、動物実験を肯定していると思われる危険性があり、誤解を受けたくないという結論で駄目になりました」との内容であった。

 メールからはその人の悔しさと心からお詫びをして頂いている姿勢が伺われた。結局「動物実験反対」を旗頭にしている著名な方をお呼びして講演を開いたり、写真展示会をするという方向で落ち着いたそうだが、誠に残念な結果であった。

 「カタカナの墓碑」の何処に動物実験を全面的に肯定している部分があるのだろうか?一人の英国人女性が築いた実験動物福祉の理念を何故、理解しようとしないのか不思議であった。

 一部の反対運動家達にとってはアンも動物実験推進論者と見ているのかどうか、判らないが少なくとも自分達と対角線にいる者としての存在感にしか取っていないように思われた。

 少なくとも私にはアンの行って来たことを認めれば動物実験を否定する根拠が無くなると思っているようにしか見られない。

 アンがいた頃に比べれば確かに動物実験反対の市民的運動が盛んになっている。どちらかというと、医学生物学の裏側で行われて来た動物実験の存在が情報社会への転換で誰にも開示されるようになっていることは事実である。

 しかし、その一見、事実と思われている部分にも過去が隠されていることは知られていない。歴史的に見て、その事実が捻じ曲げられて、現在でも同様のことが行われているように宣伝されていることを知っている人も少ない。 

 感情的で正直な活動家達はその宣伝に踊らされて、「動物実験」と聞いただけで関係者を憎むようになる。

 そして一方通行論理で相手の言うことを信じなくなる。

 自分達の活動が正統派で、他は生ぬるい集団として、少しでも実験容認のような事を書いていれば攻撃の対象にもなる。まさに是か否の二極しか認めないのである。確かに私は動物実験側の人間として、これまであらゆる情報を正直に書いたり話して来た経緯がある。その為に関係者から異端者扱いを受けたり、反対者からも「残酷な奴」と罵られたこともある。

 カタカナの墓碑を紹介した米国からのメールでは「死ね!死んで実験犬に生まれ代わって来い」と書かれたこともある。そのたびに辛い思いをして来たが、本文の中に書いてあるように、一人でも多くの日本人に何故、カタカナで書かれた墓がロンドンにあるのかを知って欲しかったし、一滴の涙でも流してもらえれば良かったのである。 

 ただ、それだけが望むことであって、動物実験反対派からも推進者側からも綱引きをして欲しくないのである。

 本音の部分では私も動物実験無しで科学が発達することを望んでいる。恐らく、研究者も同じ思いであろう。

 しかし、現実の世界ではその人の立場において出来ることと、出来ないこともある。総論的には無理でも少なくする努力と、苦痛を排除する努力、環境のコントロールに力を入れること。そして、最も大事なのはこれらの犠牲の上に人の福祉があることを知ることが関係者の責務だと思っている。

 反対派の人達には、これもひとつの動物福祉運動と理解して欲しいのである。人は色々なポリシーを持って生きていると思うが、私にはこのジレンマの中で生きてゆくことがひとつのポリシーであり、理解者が増えることが大きな喜びである。