田んぼの中に立つ小屋と書いて「田舎」という。イメージとしては大都会には似合わない字であるが、人は誰でも生まれ故郷となる田舎は持っている。もちろん、東京や大阪のど真ん中に生まれた人もそこが田舎だ。
私自身も大阪府の堺市に生まれたが、今は親戚兄弟も含めて誰も住んでなく、故郷の田舎は記憶の中だけに留まっている。その田舎に先日、数十年ぶりに訪れて見た。東洋一と謳われた白砂青松の大浜海岸が近くにあり、自宅から海水パンツひとつで泳ぎに行ったし、腹が減った時などは浜に天日干ししてあるジャコ(イワシ)をくすねて食べたりしたものだ。また、隣の浜寺という海岸には米軍の進駐軍の兵舎も残っており、毎月15日にはパンやチョコレートを配ってくれるので、兄達は良く貰いに行っていたのも記憶に残っている。通っていた小学校には防空壕の残骸もあった。現在の堺市は大規模な企業誘致で大阪府下の中では一番の人口密度を誇り、久し振りに生まれ育った町は海岸線も埋め立てで大きく後退し、昔日の面影はすっかりなくなっていたが、不思議と私が生まれた長屋だけは残っていた。いたずらをして亡父に追い回され、そのたびに逃げ込んで取り成してくれた「大江のおばちゃん」も高齢にも関わらず、元気で暮らしている。飲み水として使っていた井戸も台風のたびに腰まで浸かった家も健在であったが、今はまったく知らない人が住んでおり、一本の大きな枇杷の木だけが私を歓迎してくれた。当時はこの長屋の住人の殆どが経済的に苦しい生活を営んでおり、我が家も例外ではなかった。家族7人が6畳と4畳半の窮屈な部屋に暮らしており、一番末っ子の私は兄から順番に着古された学生服を着て小学校に通った。戦争で二人の兄を失っており、実際には9人家族だったので、両親は本当に大変な思いで生活を支えていたのだと思う。明治生まれだった両親はその頃にしてはめずらしいケースで、岡山出身の親父と徳島出身のおふくろの熱烈な恋愛の末、双方の反対を押し切って駆け落ちしたあげくの生活だったので故郷の世話にもならず、頑固一徹の親父の故郷には一度も連れて行って貰ったこともなかった。それでも毎日ひもじい思いをしている子供達の為には背に腹は代えられず、内職の傍ら、おふくろは持って来た着物を質屋に持って行ったり、故郷の徳島に行っては米や野菜を貰って来たのを憶えている。おふくろの田舎に帰る時は私や兄も同行し、行きは空っぽの行李に帰りは持ち切れないほどの荷物を持たされ、泣いた事もあったが、それでも、田舎に行けば食べ切れないほどのご馳走が待っていたので、夏休みなどはそれが唯一の楽しみだった。徳島では何十万坪という素封家の長女だったおふくろが何故、このような人生を選んだのかわからないが、昔も今も男女の仲というのは理解しがたいものである。そのおふくろも私が中学生になってすぐに脳梗塞で他界し、その後に家に入った継母もとっくの昔に亡くなったし、その数年後に親父も後を追うようにして鬼籍に入った。親父や継母は最後まで私が兄弟の協力を得て面倒を見たし、一度でもと言っていた海外旅行も連れて行くことが出来たが、今もって残念なのはおふくろのことである。結婚以来、一度も楽をすることも無く、ひたすら子育てに専念した挙句、白熱球以外、電気製品というものに縁が無く、ようやく、蛍光灯が我が家に灯された最初の年に息を引き取ってしまった。今、生きていればどんな要求でも叶えてやれたのにと、障害者である家内の両親の面倒を見ながらいつも比較してしまう自分がいる。
そんなおふくろの面影を残している人と出会ったのが最初の就職先が倒産寸前に追い込まれ、退職を余儀なくされたのを機会に僅かな退職金で念願の北海道旅行を果たした時であった。記憶に新しい所では覚えておられる方もいるだろうが、トンネルの崩落事故で多くの方が犠牲になった北海道の漁師町であるが、そこに住んでおられる婆ちゃんの自宅で一宿一飯の恩義に授かったのである。旅費を使い果たし、もう、大阪に帰ろうと思っていた矢先のことであった。偶然に浜でテントを張っていた時に声をかけられ、厚かましくも泊めて頂いた上、帰りにはおにぎりと5百円も貰った。初めて見た時はおふくろが生きて戻って来たのかと思うほどそっくりだったので、驚いてしまった。夜を徹して明治時代のニシン漁の話や厳しい自然と仲良く暮らして来たアイヌの物語などを聞かせて貰い、それ以来、毎年のように訪道しては畑仕事や雪かきを手伝うようになった。今では98歳にもなるので、近所に住む娘夫婦が食事の世話をしているが、私のことを「大阪の息子」として、認めてくれ、訪問するのを心待ちにしてくれている。帰りのバス停ではいつも泣きながら見送ってくれるので、そのたびに、また、来ようという気にさせられるのである。田舎が無くなった私に亡きおふくろがプレゼントしてくれた故郷として、婆ちゃんが生きている限り、また、私の体力が続く限りこれからも訪れたいと願う毎日である。最後にこの田舎のことを思って作った歌を披露して、最後までエッセイを見てくれた人にしばしの旅行を楽しんで頂きたい。
「積丹ロマン道」
1)銭函過ぎれば海に出て 吹雪でかすむ築港の
波止場に群れ飛ぶカモメ達ここは起点の小樽駅
忍路(オショロ)海岸右に見て 余市を過ぎれば白岩の
トンネル越えて様々の 奇岩迎えるロマン道
2)御霊が眠るセタカムイ(崩落した岩の名前) 今は無人のトンネルに
何も知らない旅人は 無邪気に陽気に笑ってる
通い慣れたる海岸も 通過するたび涙する
墓石のごとき氷柱も 夕日に映えるロマン道
3)母さんたたずむバス停で 行くも帰るも泣き笑い
ここはふるさと美国橋 初夏には浅瀬でヤマメ釣り
秋には鮭の乱舞見て 冬にはダンプ(雪かきの道具)で雪投げを
幾年過ぎても変わらない 景色は永久にロマン道