凶悪犯罪が起こるたびに「あんな子が?」とか「あんな人が?」と言う声が聞こえます。最近の犯罪でもマスコミの聞き取り調査では、「まさか、あんな子が?」とか「学校では成績優秀なのに」とかいう答えが返って来ますが、これは「まさか自分の子に限って」という言葉に代えることもできるのではないでしょうか?
多くの家庭では自分の子供に限ってそのような大それた事をするはずが無いと思っている方が殆どだと思います。家族に見えない部分が他人に見えるはずはないのです。成績が優秀イコール良い子とは限らないのに、現代の日本ではエリート街道を歩ませる為に一方的に親の考えを押し付ける人が多いと思いませんか?人格の形成は遺伝と共に、育ってきた環境によって形作られて行くものですが、経済的に苦しい生活をしている人たちの中でも、素晴らしい方がいっぱいいます。それは人の痛みを自分のものとして捉えられる人で、他人を蹴落としても上を目指そうという人には理解出来ない事柄なのです。恐らく、このようなエッセイを見ている自称「優秀な人」には、何を負け犬のたわごとを言ってるのだと思う人もいるでしょう。いくら成績が優秀な子であっても、自分より下の人たちを見下す性格を形成して来た人には大人になっても社会全体を見渡す能力に欠けている人が多く、自分達こそが世界の中心と錯覚してしまう傾向が見られます。弱小動物の命が如何に簡単に奪われてしまうことは子供の頃に多くの方が経験していると思われます。特に男子はカエルやザリガニなどを取って来て、色々ないたずらをしたあげく殺してしまったり、犬や猫も自分より早く死んでしまうという事も生活の中で経験して来ました。そういった中で命のはかなさを憶えていったのですが、最近の家庭環境ではそのような動物と接触する機会も少なくなり、「命」ということを考える余裕も無くなったようです。逆にゲームの世界では簡単に人の命を殺すことが出来、バーチャルな世界と現実の世界の混同が起こっているのが現状のようです。
過去を振り返っても仕方が無いですが、昔は家には両親の他には祖父や祖母も同居していて、家族が多かったように思います。そういう同居人が年を経て先に旅立つことのむなしさや悲しさを経験して、命の大切さ、尊さを学んで来たのです。おまけに、それよりも早く、愛犬や愛猫が死んでいくことも現実の厳しさとして捉えなければならず、そういった経験を通して、自分以外の人、動物への優しさを形成していったのだと思います。現在の犯罪のケースを見ていると、とても子供だから許せるという範囲を超えているように思います。最初は動物の殺戮だけで楽しんでいた子供も、徐々にエスカレートして、ノンブレーキのままで人の命を奪うことも平気になってしまう。他人の痛みを自分のものにして考えたことも経験したこともない子供たちがそのまま、大人になって、同じような子供を形成していく。日常のような凶悪犯罪で馴れが生じて、多少のことでは驚かなくなってしまう現状は正しい姿なのか?今、我々大人が考えなければならないことは何だろう?現在の法律では犯罪者だけに罪を問えるようにしかなっていませんが、やはり、そういう子供たちを育てた我々大人の責任も問われる時代だと思ってしまいます。