35.「美談」

 世の中にはこれまで、真実と思っていたことが決してそうではなかったということが良くある。「美談」として取り上げられた忠犬ハチ公の物語や、南極で置き去りにされたジロー、タローの物語もそうである。愛犬家の中には、こういう物語を読んで犬好きになった人は多いと思う。ハチ公は主人の帰りをずっと待ちながら駅に通っていたということであるが、実際は駅前で焼き鳥の店主がくれる残りエサを貰うために通っていたのであり、自分を簡単に捨てていった薄情な飼い主のことなんかすっかり忘れていたということだ。確かに最初は、最寄りの駅から職場に向かう主人の後を付いて行った為、ハチ公はそのルートを覚え込んでいた。そして、いつもの食事時になっても一向に姿を現さない主人を探す目的で駅前に行ってじっと帰りを待っていた。次第に痩せ細ってくる哀れなハチ公の為に、焼鳥屋の店主は可哀想になり、残った焼き鳥を与えていたのだが、それが学習効果となり、毎日、その時間になると駅前に来ていたというのが真実である。この話が出た頃は戦後の復興盛んな頃と聞いており、国民の孝行意識高揚の為に作為されたらしいが如何にも美談好きの日本人にはぴったりの宣伝だっただろう。今はハチ公の銅像前は若者カップルの待ち合わせ場所として有名らしいが、この事実を知っている人は一体、何人いるだろう?もしかして「この犬なに?」と思って見ている若者のほうが多いかも知れない。忠犬という言葉はむしろ忠人と変えなくてはならない世の中だから。

ジロー、タローの話も同様で、越冬隊員が帰国する際に、荷物が多いという理由で、他のエスキモー犬やハスキー犬と一緒に置いてきぼりにされたものだ。食料も無い、極寒の地で放置された犬達はどんどん死んで行った。その中で、奇跡的に次期越冬隊が来るまで命を永らえたのがジローとタローであった。これが美談として国民に伝えられ、「奇跡の再会」とか「越冬隊員との愛情の絆」とか、まったくもってふざけた話になってしまったのである。南極に連れて来る時はどんなに困難でも、ヘリを使ったり、雪上車を使ったりして来ているのに、何故、帰国時に連れて帰らなかったのか、隊員の中には別れ際に涙を流していた者もいたと言われているが、自分達の命をブリザードのような危険な環境から守ってくれた犬達に、恩を仇で返すような行為だったと責められても仕方があるまい。ともすれば、人間の都合で美談化して動物達の本来の苦痛はうやむやにされがちである。活躍を認められて脚光を浴びる盲導犬やレスキュー犬、警察犬、牧羊犬など働く犬はもちろんのこと、一般に飼われているコンパニオンアニマルや、動物実験で処分されて行く運命の犬達も同じ能力を潜在的に有していることを忘れてはならない。彼等はどんな痛い目、辛い目に会っても一切文句は言わず、無償の行為をしているという点は同格なのに、残酷で美談になりにくい、単なるペットというだけで、社会の目から隔離されてしまっているのが現実だ。例えば、登山で頂上を制覇した人のみが表舞台でもてはやされるが、その陰にはベースキャンプや二次キャンプで頑張っている方がいるからこそ、成し遂げた成果がある。社会構造も同じで、つい、頂上で旗を振っている人のみ脚光を浴びてしまうが、実際はその人一人の成果ではないのである。これは実験動物の社会でも同様であるが、ここでは主題とはずれるので、またの機会に書こうと思っている。現在の驚異的な寿命の延長や、ノーベル賞の陰には多くの動物達の犠牲があり、それを享受しているのも多くの人間である。そういった動物は決して美談にはなり得なくとも、そのことに感謝して、彼等の冥福を祈ってやることが我々人間に与えられた最低の義務であると思う。