医学部に居た頃、さる実験動物関係のエライさんに「佐藤さんは動物に対して擬人化している」と良く言われた。学会で実験動物の苦痛というテーマで議論された時に、壇上に立つパネラーの殆どが苦痛を否定する内容だった。それも、麻酔科の医者を含む専門家ばかりだったのでショックだった。
苦痛を感じているかの判断は本人以外、科学的に証明出来ないはずである。交通事故で追突され、臨床的にも問題がないと思っても、本人が「首が痛い」と訴えると「そんなはずはない」と医者でも言えないのである。人間の場合は口で訴えることができるが、動物は残念ながら、そういった手段は持たない。それだけに、相手の立場を尊重してやらなければならないのだが、どういう訳か、実験動物への配慮は人間のご都合主義で曲解されているように思う。例えば内臓が露出しているようなケースでも「これは一見、苦痛を感じているように見えるが、内臓には神経がないので、この動物はまったく苦痛など感じていない」と、平気で言う発表者もいた。確かに臓器という部分的な解釈であればそうかも知れないが、それに至ったケースや術後の痛みなどにはまったく触れないところが、動物実験を全体の流れとして見ていない専門家の意見であろう。また、実験後の安楽死の方法についても小動物の場合はギロチンや頚椎圧迫で死に至らしめる方法が成書に堂々と書かれているし、ウサギまでは打撲でもかまわないとまで記載されている。私は例え小動物といえど、麻酔による安楽死を心がけているが、「時間を掛けずに瞬時に死に至らしめるほうが、動物愛護の観点からふさわしい」と反論された事がある。それに対して、極論であるが「そしたらマウスなどは一気に踏み潰すという方法も構わないのですね?」と問うたら、「それはまずいでしょう」と答えが返って来た。打撲やギロチンとどれほどの差があるのか判らないが、とにかく、まったくもって身勝手な論法だと思う。
英国の法律などを見れば、「第三者がそれを見て残酷だと思える行為はしてはならない」と明記されている。それは見る人の精神的苦痛も考慮しての素晴らしい法律だと思っている。また、そのことから動物実験情報が如何に一般に開放されて来たかの歴史的な配慮が伺える。安楽死について単なる時間的な配慮よりも、その方法論について、もっと議論して欲しいシンポジウムだったが、残念なことに唯一、動物への苦痛を訴えた日本動物福祉協会の専任獣医は多勢に無勢で、動物実験を推進する側の圧倒的勝利に終わってしまった感があった。
私は常々、動物実験は「擬人化」することから始まると思っている。例え、マウスなどの小動物であってもこういうことをしたら痛いだろうな?とか、人間ならば我慢できないだろうと思いながら実験して欲しいのである。そうすることによって初めて患者さんへの優しいアプローチが可能であり、「どうせ動物だから、どうせ最後には殺すのだから」と言って、苦痛の排除も考慮せずに実験できる医者にはお世話になりたくない。