2:  序章

今から40年前といえば、日本では実験動物学の黎明期で、学問としてまだ完全に体系化していない段階にありました。

公式の学会もなく、任意の研究会があるだけという時代だったのです。

大学の実験動物施設では、「動物舎」と呼ばれる飼育小屋と数室の実験室が存在する程度で、空調設備もない環境の中で、汚物にまみれながら研究者も技術者も仕事をしていました。

実験に使用される動物も本来なら、遺伝学的、微生物学的にコントロールされたものを使用するべきです。しかし、そのような動物は大変高価で、多額の予算を持っている大手の製薬企業ならばいざ知らず、そのような動物を入手するには大変難しく、当時の大学の少ない予算では到底入手不可能で、しかたなく雑動物に頼らざるを得ない状況でした。

兼業農家などで飼育されたラットやウサギ、自治体の動物管理センターに持ち込まれたイヌやネコなど、大半がそのような動物を使って大学での実験が行われていました。

アンが日本を訪れたのはちょうど、そんな時代でした。

当時、欧米ではすでに遺伝学的、微生物学的にコントロールされた動物を使っていました。

そして、アンの出身地であるイギリスは、 アメリカと比べても半世紀も早く動物福祉関係の法的整備が行われていて、世界的に見ても、この分野では、一番の先進国だったのです。

来日した彼女は、国立大学での実験動物たちが置かれているひどい環境を目の前にして、驚き、そして苦しみ抜きました。

それでも持ち前のねばり強さで頑張り通し、多くの関係者に動物の命の大切さ、尊さを日々の仕事を通して必死に訴え続けました。

しかし、彼女は体調を崩し、 残念ながら志半ばで帰国し、天国に召されてしまいましたが、 彼女の撒いた種は確実に日本中に浸透し、やがて芽を出したのでした。

そのような外国人女性が日本にいたことはすでに関係者の中でも忘れ去られて久しくなりましたが、実験動物の福祉の向上のために、命を賭けて啓蒙活動していた彼女の壮烈な生き様を見ていただきたいたいと願っております。