19.「引越しの理由」

結婚して、府営住宅の5階に住んだ。ちょうど二年目に雌の子犬を拾った。その子犬はまだ、へその緒がついたままで、ダスターシュートに捨てられていた。自宅にあった手術用のゴム手袋に穴を開けて、温めた牛乳を飲ますと、か弱いながら何とか飲んでくれた。下腹部を濡れガーゼで刺激をすると、小便と軟便もした。

これなら、助かると思って、数時間おきに牛乳を与えた。仕事を休んで給餌を繰り返した結果、子犬は自分で牛乳を飲むようになった。名前はマルと名付けた。マルはみるみる成長し、家族の帰宅をベランダで待ち侘びるようになった。無駄吼えはしなかったが、やはり、我々の姿を見ると喜んで鳴いた。

その頃は棟長をしていたので、鳴き声による住民の苦情が心配であったが、危惧していた通り管理人に投書があり、「棟長自ら規約を犯すのはけしからん」ということで仕方なく家を探すことになった。小さくても良いからせめて誰にも気兼ねをしない、庭付きの一戸建てが欲しいと夢見たいなことを妻と語り合った。

ある日、妻とマルを連れて今、住んでいる住宅地の辺りを散策しているといきなり、現地事務所の人が現われて、「いらっしゃいませ、家をお探しですか?」と問われた。まだ、住宅地として整備されて間もない頃で、実際に住んでいる人もまばらであった。我々は「いえいえ、散歩に来ただけです」と答えたのだが、事務所の営業マンは「まあ、見るだけでも結構ですから」と強引に建売住宅の一画を案内してくれた。 

見学を終えて事務所で話をすることになり、しきりに購入を勧められたが、当時の給料では到底、買える代物ではない物件だった。それでも帰る頃には冗談のつもりで、住宅地内のど真ん中にあたる物件に「佐藤様予約済み」のバラの花を飾ってもらい、千円だけ置いて来てしまった。 

それからというもの、真剣に金策を考えるようになり、取り敢えず頭金だけでも何とかしようと、大学で借りられる最大の借金100万円、妻の勤務先で30万円、結婚後、貯蓄してあった90万円を足しても、当然、頭金には及ばなかった。とにかく、それが全財産で交渉に臨む事になった。 

最初は地元の銀行も渋っていたが、「二人とも公務員だし、何とかしましょう」とオッケーが出た時は万歳を叫んだ。給料の大部分とボーナスが殆ど消える条件であったが、念願の庭付き一戸建ての生活が始まった。

まだ、子犬の域を脱していないマルと妻(息子は生まれていない)の家族三人で新居に引越しをしたが、庭で走り回るマルの姿を見て、無理をして良かったと思った。そのマルも二十年前に亡くなり、古くなった家も新築した。

その後、数匹の犬を拾って来て、家族の一員となった犬達も次々と代替わりして、今はランというハスキーの雑種だけになってしまった。相変わらず、鎖もつけず、狭い庭を駆け回っているが、ベランダの狭い空間でちぎれるように尻尾を振って迎えてくれた、マルの存在がなければ、今の生活があったかどうかはわからない。