16:  アンの形見

家の中に入り居間に通されました。

手紙では老人専用のアパートメントに暮らしておられるという話でしたが、周囲に芝生を巡らした一戸建ての瀟洒な建物でした。

キッチンとトイレ、風呂などが機能的に配置され、いかにも世界有数の福祉国らしく、お年寄り一人が充分生活を送ることができるよう配慮がされてありました。

壁には以前送った掛け軸と、私の家にもあるアンの写真が飾られ、ベッドルームには二匹の猫が寝ていました。

お母さんが寂しい生活をされているのではないかと心配していましたが、毎週お手伝いさんが芝生の手入れに来てくれるし、アンの妹も家族と一緒に近くに住んでいるということで安心しました。

しばらくするとお母さんは紅茶を持って現れました。それは英国風のミルク紅茶で美味しくいただきました。

持っていった辞書を片手に片言の英語ではありましたが、お母さんにはゆっくりと話をしていただいたおかげで何とか意思を疎通させることができました。

壁にはアンの写真が飾られていて、そのまわりには、すでに亡くなられたご主人や親戚の方などの写真もありました。

お母さんは突然思い出したかのように、少し待ってと言いながら別の部屋に行かれました。

しばらくするといくつかの品物を手にして、ニコニコした顔で再び部屋に入ってこられ、プレゼントだと言って私たちに手渡してくれました。

息子にはロンドン市内を走っている二階建てバスのオモチャを、妻には珊瑚をとじこめた綺麗なガラス玉を、そして、私には小さな木箱でした。

息子は早速いただいたオモチャで遊び、妻は「綺麗なガラスだわ!」と上機嫌でした。

木箱を開けてみると、中にはウサギが仲良く並んでいる根付けが入っていました。

日本の鳥獣戯画に似ている構図です。

「これは、どうしたのですか?」と尋ねたところ、アンが日本で買ってお母さんに贈った物だということがわかりました。それを私にプレゼントするというので、私はあわてて断りました。

アンの形見である大事な品を私がもらう訳にはいきません。

「あげる!」「いらない!」と何度もやりとりをしましたが、お母さんは「あなたが持っている方がふさわしい」と言っていただきました。

日本は動物福祉についての考え方が遅れていることを、イギリスにいる時にアンはすでに知っていました。そして実際に日本に来て、各地の実験動物の施設で働いてみると、そのあまりのひどさに驚き、悲しみました。

ある日、骨董屋の店頭でこの根付を見つけた時に、日本人の器用さや、日本文化のすばらしさに感動すると同時に、日本人が本来持っている動物に対する優しさがにじみ出ていて、ホッとしたのではないでしょうか。

日本人の根底には、昔からこのような優しさがひそんでいるのを知り、思わずイギリスにいるお母さんに贈ったものと想像されます。

アンが、日本人を本当の意味で見放していない証拠の品だと私は思いたかったのでした。

そのような根付を、お母さんはどうしても私にプレゼントしたいという意味が、今十分に理解することができました。

これ以上無下にお断りするのも、お母さんに対して失礼だけではなく、アンに対しても申し訳ない気持ちがしてきました。

私は根付をありがたくいただくことにしました。そして、私たちからも、日本から持ってきた扇子、折り紙などをお母さんにプレゼントしました。

お母さんはいたく感激されて、妻から鶴の折り方などを教えてもらい、完成すると早速居間の戸棚に飾っていました。

ほとんどお母さんは英語で、私たちは日本語で受け答えするという「会話」でしたが、心が通い合ってさえすれば言葉など必要ないということが心から嬉しく思いました。