10.「ジロさんのこと」

我が家で飼っていた愛犬「ジロ」が死んだ。17歳だった。人間で言えばかなりの老齢であったが、亡くなる数週間前までは元気だった。

息子が習っていた英会話教室の先生の所で生まれたオスの子犬を貰って家族になった。白と茶色のブチ模様で、足が太く、小さい時から大型犬になる雰囲気を持っていた。性格は温順であったが、家族以外の人が触ろうとすれば拒否した。但し、子供は好きなのか、多少、乱暴な扱いを受けても我慢していたようだ。優しい顔をしているので、犬好きな大人が手を出すと唸り声も出さず、いきなり噛もうとした。てんかん症状を持っており、特に冬季には突然、倒れて私達家族を驚かせたが、五分もすると、正常に戻ったので、いつしかその症状が出ても、慌てず、対処出来るようになった。純粋の日本犬の血を持っており、力が強く、特に、重いものを引っ張ることが好きであった。息子の小さい時は近くの公園に散歩する際、必ずソリ板に息子を乗せて引っ張るのが得意だった。猛烈なスピードで引っ張る為に、途中で息子が板から飛ばされていなくなっても目的地の公園まではそのまま突っ走った。おかげで道路との摩擦でソリ板はすぐに駄目になり、何度も買い換えた。

家族を守ろうとする気質も強く、散歩途中で息子に襲いかかった野良犬を一撃で退散させたエピソードも残っている。普段は他の犬とすれ違っても、相手が攻撃して来ない限りは無視して通り過ぎて行くのだが、この日は違った。ジロさんがソリの前紐を引っ張り、私が後ろの紐を引っ張って、息子を乗せていたのだが、公園近くで一匹の野良犬を見かけた。普段から問題のある犬で、歩いている人を見ると誰彼なしに吼え、追いかけていく性格の犬であった。遠い所から捨てられ、この近辺に棲みついているという噂であったが、無責任な人が時々、エサを与えているらしい。かなりの大型犬でジロさんと体格は同じくらいであろう。その犬がいきなり息子の方へ飛びかかって来たのである。私はとっさのことで紐を離してしまった。息子を守ろうと抱きかけた時にジロさんが猛然とその犬に飛びかかったのである。「キャン!」という声がしたと思ったら、その犬はソリをつけたジロさんに追いかけられ逃げて行くところであった。「ジロー!」と呼ぶと、すぐに引き返して来たが、身体には一筋の傷もついていなかった。以来、その犬はジロさんの姿を見るとすごすごと引き返すようになり、数週間後には近辺でも現れなくなった。

そんなジロさんもメス犬には弱く、一頭では可哀想だというので、二頭目の犬を飼った。ランという名のメス犬でハスキーの雑種であった。ところが、このランにはジロさんも頭が上がらないというか、何かにつけて遠慮がちなのである。ランが幼犬の頃は父親のような態度を取っていたが、成長して、性成熟を迎える頃になると、完全に立場が逆転してしまった。食事の時もランが食べ終わるまで待っているし、散歩に行ってもランより前に出ることが少なくなった。食事は別々に食器を分けて置いているにもかかわらずである。人間でも相性というのがあるように、犬の世界でもあるようで、発情期になってもランは頑としてジロさんの愛を受け付けようとはしなかった。結局、死ぬまで二頭の間から生まれた子犬を見ることが出来なかった。美男子とも言える精悍な顔つきのジロさんと人間ならば惚れ惚れするような美人のランとの子供だったらどんな可愛いおチビちゃんが生まれていただろうと思うと残念で仕方ない。

ジロさんが亡くなってから、ずっと小屋に引きこもりがちのランであるが、最近では仕事に出掛けたり、家族が留守にする時は必ず、遠吠えをしていたジロさんの真似をして、鳴くようになった。その声はまるで死んだジロさんに対して、「戻って来てー!」と言っているように聞こえてならない。