05.「動物福祉と人間の福祉」

妻の両親は聾唖者である。義父は重度のパーキンソン病になり、寝たきりの生活を送っている。

 小生の両親はとっくに死別しているので、今は一人息子と合わせて五人が同じ屋根の下で暮らしている。健常者の孫が出来た時は本当に嬉しかったのだろう。まだ元気だった二人は争うようにして可愛がった。その孫も高校を卒業し、今は専門学校に通っているが、このような環境で育った為か、障害者には優しく接し、大きな反抗期もなく、順調に成長してくれた。

 生まれた時から、障害者がいる生活を当たり前のように過ごし、当たり前のように接することは、実際に経験した家庭でなければわからないであろう。公共の場で大きな身振り手振りで手話をしている姿に健常者は奇異な目で見ることがある。「福祉」という言葉が叫ばれて、一般の人々にも障害者に対する啓蒙が進んできていると言っても、日本ではまだ特殊な人々と見られ、差別意識が存在しているのが現状ではないだろうか?妻と結婚してこれまで、様々な嫌な思いをしたことがある。

 義父は釣りが好きで、元気だった頃に良く一緒に出掛けた。並んで釣っていると他の釣り人が話しかけてくるのだが、聞こえない義父は返事が出来ないものだから、当然、その人の方を向かない。

 すると、「人が挨拶しているのに何を偉そうにしているのだ!」と捨て台詞を残して行ってしまう。慌てて、小生が追いかけて行って「すんません、親父は耳が聞こえないのです」と謝ることしきりであった。また、ある時は「障害者は本来なら生まれて来ないほうが良い、野生なら生きてゆける訳がない」という驚くような言葉も聞いた。れっきとした大学の先生である。

 悲しい言葉である。その方もいずれは年を取って身体が弱り、障害者と何ら変わらない運命にあることも気づかないのであろう。誰だって年は取るし、身体の衰えは年齢とともに増してくるものだ。

 階段の一段一段の上り下りに恐怖を覚え、外出さえ出来なくなるし、脳細胞も同様に不活性化し、記憶力や洞察力も落ちてくるのは運命である。そうなった時に「野生なら生きていけない」というような言葉を持ち出すような人は真っ先に現代の姥捨て山に放置されるだろう。

 この世に生を受けたからには動物も人間も、何らかの形で意義あるものとして生きる権利があるし、例え、障害者であってもその権利を脅かせることは誰も出来ないはずだ。

 人間の福祉のために行っている動物実験ならば、常にそのことを念頭において感謝の気持ちで実施して欲しいし、実験中の苦痛は自分のものとして捉えて欲しい。

忘れられない思い出として残っている。