―あとがきに代えて
永寿特別養護老人ホームに、1人犬の嫌いなスタッフがいた。
彼には小さい時に経験した嫌な思い出があるのか、犬が苦手で、怖くて、触ることさえできなかった。
ゆきがホームに来た時にも、何の関心も持たず、近寄ろうとさえしなかった。
しかし、毎日仕事をしている時に、通りすがりにお年寄りと楽しくふれ合っているゆきを眺めていると、犬嫌いな自分が少しずつ変わっていくのが手に取るように分った。
ゆきは、吠えたり、人を咬んだりしたことがない、ただ静かにしている犬であった。
そんなゆきを見ていると、自分はなぜそんなに犬を怖がっていたんだろうと不思議に思えるぐらいだった。
ある日、「ゆきちゃん!」と思い切って声をかけてみた。
おそるおそる近寄って触ってみると、ゆきは気持ちよさそうに目を細め、おとなしくじっとしていた。
犬に話しかけている自分にどこかぎこちなさを感じながらも、何かほっとした気持ちになりつい嬉しくなった。
人には何でもないことかもしれないが、小さい時から嫌いだった犬に初めてふれ合うことができ、とても大きなハードルを飛び越えた気分がして素直に喜んだ。
今では、朝ホームに出勤すると、まず「ゆきちゃーん!」と満面の笑みを浮かべて近寄って行くのが彼の日課となっている。
誰かが、廊下でゆきの話をしていると、その輪の中に無理矢理入り込んでくるほどにまで「成長」した。
「犬嫌いが、犬好きになった人」ということで、ホームでは一躍有名になったほどである。
しかし、ゆきは初めから人なつこい犬というわけではなかった。
最初のトレーナーであった永池によると、「お手」をするのを初めはすごく嫌がったという。自分の世界があり過ぎて、人に手足を触られるのが気に入らなかったようである。
なかなか人を認めないというところがあり、一線を画すという態度がゆきにはあった。
しかし、梅雨のころ、てんかんがひどくなって、永池は何度も泊まり込みでゆきのそばで過ごした。
この時、心身ともに一緒になってきた、と永池は感じたという。自分のことを真剣に考えてくれるのはこの人だと、ゆきが気づいたのだった。人間に対してゆきが作っていた「壁」が大きく崩れた時であった。
7ヶ月の訓練期間である程度人に馴れ、人に甘えることを覚えて、永寿に譲渡されていった。
永寿のトレーナーの田中は、今までのことを思い出しながら、次のように話している。
「ホームに来たときは、ゆきは自分の方から人に寄っていこうとせず、表情も乏しかったです。
でも、たくさんの人とふれ合う中で、今ではどんなに知らない人でも軽くあいさつをしに自分の方から出向いて行きます。
1日の内ほとんどがリハビリ室にいるため、ここが自分の居場所だというふうに思っているようです。ここにいると、すごく安心できるようですね。
表情も豊かになってきました。
笑っている顔、引きつっている顔、何かをごまかしている顔などを随所に出すようになってきました。
ゆきはホームの利用者の方だけでなく、そこで働く従業員、利用者の家族の人にも可愛がられる存在となっています。
ゆきは生まれてから2年間、ケージという狭い世界の中で過したハンデを背負っています。だから、家庭で飼われていた犬よりも学習不足のところもあります。
今では、ゆきがここにいて当たり前のようにホームの誰もが思っています。
だからゆきがいない風景は想像がつかない、というぐらいまでに、ゆきの存在はホームにいるみんなに浸透しています」
石井施設長も、感慨深げにこう語っている。
「ゆきの存在が、命の大切さを伝えてくれる大きな役割を果たしています。
ゆきのお陰でいま、私たちは毎日楽しい経験をさせてもらっています。
ゆきが何をしたということではないのに、ただ『居る』というだけで、そのそばにいる人の心が和み、精神的にも安定することができます。そんな不思議な魅力を持っています。
この子が持っているものは、すごいですね」
ゆきはこうした人たちとの出会いによって、「普通の犬」そして、セラピードッグに成長することが出来たとも言える。
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大学の施設には佐藤良夫さん、日本レスキュー協会には倉田由美さん、永池桐子さんを中心にしたスタッフの人たち、永寿特別養護老人ホームでは石井施設長と田中めぐみさんを初めとするスタッフの人たち―こうしたすべての人たちが、動物福祉の考え方の基本を理解し、人間と犬との共生を真剣に考える人たちに占められていました。
多くの人たちの縁に支えられ、ゆきは命を助けられ、自らの存在そのものが、いま多くの人の心に安らぎを与えています。
処分される予定の命がたった1本の電話がきっかけで助けられ、理解のある人たちの手から手へと受け渡されました。
それはまさに、「命のリレー」の物語でした。
今、ゆきの存在そのものが人の役に立っています。不思議な人と犬との縁であり、ここにこそ、人と動物との共生を願う真髄があります。
毎年、多くの犬や猫などが処分されています。
「たった1頭から始めよう」との合い言葉でスタートした「セラピードッグ《ゆき》誕生物語」。命を大切にし、命を守ることの大切さを多くの人にお伝えすることができれば幸いです。
セラピードッグゆきの舞台は、いまちょうど幕があがったばかりです。
最後になりましたが、この本を制作するに当たり、先ほど挙げさせていただいた方々を始め、たくさんの方にご協力いただきました。ここに感謝申し上げます。
2004年 ゆきのセラピー活動2年目に入った秋
ジュリアン出版局編集部